娯楽/私生活/東京事変 
初めてなのだと、彼は言う。笑う。声を上げたりはせずに。ただ静かに淡白に。出逢った時からそれはずっと変わらない。
吐く息が白く漂うのを目で追えば、空からひっきりなしに振り落ちる白の結晶と夜の間に紛れていく。
手を繋ぐのなんて、初めてなのだと、彼は言った。三十五年も生きていてそんな事はないだろう、と思ったが、強ち嘘ではないかもしれない。嘘ばかり言う男だけれど。
この男は普通に(普通、の定義は不確かだけれど)生きていれば経験するような事をあまりしていない。逆に、普通の人が経験しないような事はとても多い。
そんな事を言えば、よく働く頭とよく回る舌が完璧すぎて否定の余地がない厭味を返してくるのは分かりきっていたし、それに自分だって似たり寄ったりだ。まず存在自体が普通ではないのだし。
そういう事を自虐的でも投げやりにでもなく言えるようになったのは、自分自身を認められたからかもしれない。その前に、認めてもらえたからかもしれない。理由は不確かでも確かな気持ちは動じなかった。
認めてくれた男の右手の温度はひくい。寒がっていた自分をあたためようという名目でした行為だったのに、これではまるで自分があたためているみたいだ。
でもそれはとても心地の好い事であったし、どうせ一緒にいるだけで自分の体温は上がっていくばかりなので、少しくらい分け与えたって全然差し支えない。
さくさくと、無言のまま踏みならしていく地面は月明かりを受けてぼんやりと発光している。だからこんな夜深い時間でも、さみしくはなかった。何より左手にある体温がやさしかったので。
なあ、初めてなんておかしいよ。
厭味を返されると分かっていても、言ってみた。そうしたら、意外にも彼はとても穏やかな口調で答えた。「そうですか?」
思わぬ肩透かしを食わせられて黙っていれば、繋いだ手をゆるりと持ち上げて、唇を押し当てられる。それは今までにもらったどんなキスよりも、唇にされるよりも恥ずかしかった。
「手を繋ぐのも初めてなら、何かを愛したのもあなたが初めてです」
その言葉が、声が、やるせないくらいにやさしかったものだから、思わず勢いよく振り仰いでしまった。それでも淡い光に照らされた顔に見つけられたのは、変わりない笑みだった。 当たり前の事を言っただけだと云われているようで、ますます体温が上がっていくのをはっきりと自覚した。ばかみたいにうるさい心臓は、きっと彼にも聞こえていただろう。
右手にある左手を強く握り締めると、ゆるやかに同じだけの力で握り返される。それはまるで、二人でするお祈りのようだった。 そしてゆっくりと来た道を引き返すあいだずっと、どうしても叶えてほしい願い事をひとつだけ、ひたすらに祈り続ける。
隣で笑っている彼の笑顔がまったくいつも通りなのと同じように、世界には決して揺るがない軸がきっとあるのだと思う。そう願う。
(このひとが、そんな揺るぎないしあわせをいつか、俺がいなくなっても、手に入れられますように)
そう、願う。

左に笑うあなたの頬の仕組みが乱れないように

2007/10/07