娯楽/メトロ/東京事変 
もうみんな識っている。諦めている。彼はもう二度と此処へ帰ってくることはないのだと。それが『ただの事実』になるまでに、とてもながいながい時間がかかった。
それでも、一年に一度、こうしてセレニアが揺れるこの場所へ集まる。 そのながいながい時間のあいだに新しく生まれ変わった世界において重要な位置に在るティアは、たとえどんなに忙しくて目眩がしそうな日々のさなかでも、この日だけはどんな手段を使っても休みを取った。 それはひとつも違わず彼らにも言えることで、だからこそ特別なのだ、今日という日は。
ただ集まって、言わずもがな互いに知っている近況を語り合って、取り留めのない会話をしてはまた日常へ帰る。でもそれを無意味だとは誰ひとり思わない。日常へ還ることすらできない彼に、聴かせているのだから。 ここは風の大きな通り道だから、彼のいる場所にまで届くに違いない。そんな子どもじみた願いを、もう随分前から大人と形容される歳になったティアは胸にしまって、すでに人の居なくなってしまった渓谷に佇む。
燃えるような紅が、空を侵食している。光は限界を知らず、目に映るすべてを紅に染めていく。それはまるで彼のようでいたたまれない。一日の終わりに、紅は無くてはならない。ティアにとっての彼もまた、そういう存在だった。
「帰らないのかい」
優しさが最大限滲んだ声に振り返れば、想像を裏切らず金の髪をさらさらと風に揺らす男の姿があった。蒼い瞳は深みを増して、そこに流れる月日を改めて思い知る。
「ええ、もう少しだけ。――あなたこそ」
微笑めば、そうか、俺も、と言ってティアが腰掛けている岩に背中合わせに凭れる。ティアは十数年前からは考えつかないほど、うまく笑えるようになった。いつも食えない笑みを貼り付けている軍人の気持ちが、少し解る気がする。 とても、楽なのだ。笑うということは。たとえ心からではなくとも、口の端をゆるりと持ち上げれば無駄な争いは避けられる。 彼と出会ったばかりの時はそれが出来ず、しょっちゅうぶつかりあっていたものだと思うと、くすぐったい苦さが胸にひろがる。
そのまま暫く、朱が藍に変わるまで互いに背中を向けたまま音のない時間を過ごした。ゆったりと流れていく世界は、彼が護りぬいた世界は、こんなにもうつくしい。
「君は変わらないな」
どこか悔しげに聞こえる声を耳にして、目を閉じる。理由は何となく察する事ができた。誰よりも多く彼と同じ瞬間を共有した男は、もうすぐ、淡く綺麗な翡翠色の瞳を持つ女性と結婚をする。
「俺は、耐えられなかった。君も、好きだったろう、あいつのことが。好きなんだろう、まだ」
心を削るようにひとつひとつ噛みしめて紡がれる言葉に頷きかけて、やめた。
「わからないわ」
恋よりも愛よりもずっとやるせなくてやわらかいこの感情を、言葉になんてとてもできない。
もうかなしくなんてないのに、胸が痛む事さえないのに、どうしようもないせつなさが燻って目の奥が熱くなる。 頬に、あたたかな水が流れた。懐かしい感覚。いつまで経っても枯れることはない。彼を想うたびあふれる、あたたかな感情のように。 きっとこれからも変わらない温度で、揺るがない純度で、この気持ちはティアのなかでひっそりと息をする。まるで出会いがついさっきのように、鮮やかな彩を以って。

「たいせつすぎて、わからないわ」

出会いがついさっきのように

2007/10/20