錯乱 / 椎名林檎 
 いつも通りの筈だった。平和島静雄が池袋に現れた折原臨也を追いかけて路地裏に追い詰めた、その過程までは。
「ねえシズちゃん、お願いだからはやく死んでよ」
「そりゃこっちのセリフだ。臨也君よぉ」
 先程静雄が振り回した標識に掠ったのか、米神から血を流している臨也は無表情に呟いた。普段浮かべているわざとらしい微笑みや神経を逆撫でる嘲笑の欠片もなく。
 臨也の表情に感じた違和感はすぐさま霧散して、静雄の頭の中には目の前の害悪をどう始末するべきかという事で満たされた。今までの被害を考えればこのままひと思いに殺してしまうのも癪である。 かと言って彼には残虐趣味など欠片も無く、拷問染みた方法は好かなかった。
 その、一瞬の逡巡。首筋に感じた微かな痛みに静雄は顔を顰めて原因を確かめた。自分の首から抜き取った物を見て、怒りよりも気味悪さが腹の中で蠢く。
「あは! やっぱり頑丈だなあ。動物用の注射針でもちょっとしか刺さんないんだね。ちゃんと頸動脈に刺さった?」
 無表情のままでいつもの口上を続ける臨也に不快感が募る。そっと一瞥した注射器内の透明な溶液は殆ど無くなっていた。
「てめえ……!」
 怯んでいた怒りが醒めきってそのまま筋肉に伝わる。衝動で振るった腕は、けれども慣れた感覚とは全く違う、鈍りきった動作だった。 それは一般人からすれば充分すぎる程の威力を持っていたのだが、『平和島静雄』をよく知る人物が見れば明らかな不調を覚っただろう。
 右手で掴んでいた標識がずり落ち、それが握力の低下を示しているのを覚った静雄が自分自身の変化に戸惑っていると、「ボツリヌストキシン打っても立ってられるんだ? 常人だったら致死量だよ。ホントに怪物だねえ」と言いながら近づいてきた。 殴りかかろうとした手をあっさりと掴まれ、鳩尾に臨也の足が食い込む。緩んだ右手から解放された標識がコンクリートの上で鈍い音を立てた。
「おっと、抵抗は無しだよ。……君の大事な人が死んじゃってもいいなら話は別だけどね」
 呻き声を上げる暇もなく差し出された携帯の画面を見て、静雄は息を呑む。表示された文字は上司である男の名前と、その男の殺害依頼を綴っていた。
「人間ってホント単純だよねえ。金さえ与えれば人殺しだって簡単にやっちゃうんだから」
 奪い取ろうと伸ばした指先を掠めて携帯を引いた臨也の口から乾いた嗤いが零れるが、顔は依然として能面のように表情が変わらない。
「でもシズちゃんは、俺の思い通りに動いてくれた事なんて一度もない」
「クソ……殺す……!」
 顔の筋肉すら反応が愚鈍になり喋る事もままならない。それでも悪態を吐く事だけは忘れなかった。臨也はそんな静雄を嘲笑う。――普段なら、そうである筈だった。
「俺はね、シズちゃん。君に逢ってから全てが狂ったんだよ」 しかし今目の前にいる折原臨也である筈の男は、そんな悪癖も表情と一緒に忘れてしまったかのように話を続ける。 「計画も、算段も、俺自身すら」
 睨みつけた先、昏い昏い深い闇色の眼がじっと自分を見据えているのを見て背筋を冷たい悪寒が滑り落ちた。今まで対峙した誰にも感じなかった恐怖とも呼べる感情が沸き上がるのに気づかないふりをしながら。
「俺がこんなに狂ってしまったのに」徐々に弛緩していく身体が重力に負けて、意思に逆らって膝は地面に着いてしまう。「君だけがそうやって幸せに過ごすなんて不公平だと思わない?」
「ワケ、わかんね……」
「今の君は別人みたいだよ。どうしたの? そんな腑抜けた顔しちゃってさあ! 誰かの愛に飢えてた君はどこに行ったのさ」
 静雄の声など聞こえていない素振りで語り続ける臨也は右手を掴んでいた手を離し、壁に向かって静雄を蹴り飛ばした。
「――……ッ」
「愛するだけで満足しちゃうなんて君らしくないよ。俺が狂った君はあんなに全身で愛を求めてたのに」
 言いながら、臨也はジャケットのポケットに手を突っ込んだまま静雄の脇腹や顔に右足をとばし続ける。横面を蹴られた拍子にサングラスが吹き飛んで深夜の路地裏に虚しく乾いた音を響かせた。
「あの頃の君は毎日俺の事だけを考えて恨んで憎んでいたのに今は微笑いながら『トムさんトムさん』って、ああ気持ち悪い大嫌いだ。そんなの君じゃないよ」
 筋肉自体が弛んでいるわけではないのか、あるいは痛覚さえ麻痺しているのか大した痛みは無いが、静雄にとって臨也に状況を支配されている事は何よりの屈辱であった。
「ああそう、その眼だよ。俺への憎悪で一杯になって、他に何も見えてない」
 奇妙な程やわらかくなった声が止むと同時に、静雄を足蹴にしていた臨也の足が地面に下ろされる。そして目線を合わせるようにしゃがみ込んだかと思うと、まるで慈しむようにゆっくりと静雄の頸に両手をかけた。
「ねえシズちゃん、君があの頃ともう全く違う『人間』だって言うなら俺は――」
 屈辱と激昂に思考を支配された静雄は、眼前で語られる言葉の意味を、何ひとつ理解しようとする事はなかった。
「俺は、誰のために狂ったの?」
 だから意識を失う前に彼が判ったのは、自分の頸を絞める臨也の顔が泣きそうに歪んだ事、ただそれだけだった。

what am i crazy for?

2010/04/22