トムさん。
声にするだけで体温が上がる気がする、錯覚。呼び声に応えて見上げる目とかち合うとそれだけで高揚する。互いのレンズ越しに一瞬重なった視線を静雄はぱっと下に逸らした。
ファーストフード店の窓際、日が暮れている事に安堵する。これが日の明るいうちだったなら、熱の集まった顔を太陽が嫌がらせのごとく照らし出したにちがいない。
煙草を咥えようとした手を、そういえばここは禁煙席だったと思い出して、無性に渇く口内を潤すためにキャラメルラテへ伸ばした。妙に甘ったるい液体が喉を通り抜けていく。
「すんません。また色々壊しちまって」
「気にすんな。ありゃどう見ても相手が悪い」
実際、喧嘩を吹っ掛けたのは相手の方だ。バーテン服にサングラスという組み合わせを見て半径10メートルの距離で逃げ出す輩が多い現在、先程取り立てに行った男は引き籠りだか何だか知らないが、あろうことか『平和島静雄』の恐ろしさをちっとも知らなかったのだ。
引き籠りだか何だか以下略であるその男は暴力こそ振るわなかったものの、そこいらのチンピラよりよっぽど性質の悪い絡み方をしてしまった。つまり、『わけのわからない理屈をこねくり回す』という静雄が一番嫌悪している反抗を。
その理屈というのも屁理屈の極みで、「こんな取り立てしてるあんたらだってどうせ俺と同類だ!」だの何だの居直りとも言える筋の通らない御託を並べ立てて、お約束通りにパンチ一発ではいサヨナラ、だ。
取り立てをやっているだけでエロビデオを観ながら引き籠っている気持ち悪い男と同類にされるなんて堪ったもんじゃない。
それでも現実というものは厳しく出来ていて、引っこ抜いてぶん投げた通路の手摺が壁を突き抜けて無害なお隣さんの家具やら何やらを壊してしまえば、それはこちらの過失となる。当然、給料からその分天引きされるわけで、ただでさえ雀の涙の金額が下手をすればマイナスになる事だってある。
そんな失態を繰り返せば教育係兼お目付け役のトムが、静雄相手には怖気づいて直接言えないお上さんから厭味ったらしい苦言を言い渡される。静雄にはそれが何より耐えられなかった。
「お前の場合は体質的なモンもあるだろ。そんな細ぇ身体のどこにそんな力があるんだか」
そう言って仕方なさそうに微笑う表情がやさしくて、格好よくて、静雄はいつでもちょっとだけ泣きそうになる。だって今までに一度だって、自分の『暴力』を力以外で抑え込む人に出逢った事がなかった。
今まで出遭った人間の対応は大まかに、逃げる、立ち向かう、相殺するという三択のどれかだった。隠れ四択目の『おちょくる』はこの世でいちばん嫌悪するべきノミ蟲の事であるため極力考えないようにした。何と言っても姿を思い浮かべるだけで暴れ出してしまいそうなので。
無駄にしたくない、と思う。こうやって穏やかに会話をし、一緒に飯を食い、微笑いあえる貴重な時間を。
「でも、俺がキレなきゃ良いだけの話じゃないっすか。……もうトムさんに迷惑かけたくないんすよ、俺」
厭に切実に響いた言葉が何だか押しつけがましく聞こえてしまい、静雄は一層俯いた。こういう事は本人に伝えるより、行動で示すべきなのだ。それを言葉にしてしまうのは単なる甘えでしかない。実行もできないくせに。
後悔の嵐に苛まれている静雄の髪を、ぐしゃりと撫でる手がひとつ。大きくてあたたかな、何もかもを許容してしまうようなやさしいてのひら。
「淋しい事言うなよ。手間のかかんねー部下なんて可愛げがねえだろうが。それに『馬鹿な子ほどかわいい』とか言うだろ?」
そう言って髪を掻きまぜながらにっと笑ったトムに、心臓が痛くなった。握りつぶされているような鈍痛と針を突き立てられている感覚。上手く笑い返せる自信がなくて、顔が上げられなかった。
「それにな、お前色々と我慢しすぎだ」
「え」
離れていく手をすこしだけ淋しく感じながら、驚いて衝動的に顔を上げる。見上げたトムは食事の手を止め、じっと静雄を見据えていた。
我慢なんてしている覚えはない。イラっとしたら殴る、蹴る、投げる、振り回す、めらっと殺す。害蟲を発見したら駆除するために追い回す。街中で雄叫びを上げた事も数知れず。割と自由にしている自覚があるため、純粋な疑問で頭がいっぱいになった。
そんな静雄の考えている事が解ったのか、苦笑したトムは期間限定と銘打ちながらあっさり復活したハンバーガーを咀嚼し、呑み込んでから言葉を継いだ。
「そうじゃねえよ。何つうの、こう、お前って全然人に頼ったりしねえだろ」
「や、そんな事――」
「部屋壊して前のアパート追い出されて暫く野宿したり金無くてぶっ倒れそうになるまで断食したり、こないだだって粟楠の連中に追い回されてんのに俺に何の相談もしねーで会社辞めるとか言いだすしよ」
静雄の否定を遮って喋り続けたトムがコーヒーを飲むために言葉を切ると、沈黙が流れた。挙げられた出来事は静雄にとって自分に責任があり(最後は嵌められたのだが、騙された自分にも一応責がるだろう)、自分で始末をつけるべき事である。
誰かに、ましてや日頃から迷惑をかけっぱなしのトムに頼るなんて静雄には思いつきもしないのだ。前述の全ては最終的に全てトムに世話になってしまったわけだが。
「お前がどう思ってるかは大体想像つくが、普通の奴は知り合いに頼ったりするんだよ! 特に俺みたいなお節介焼きなんか御誂え向きだろーが」
「トムさんに、これ以上迷惑なんてかけられねっすよ」
「かけて欲しいから言ってんだろ」
いま、自分はどんな顔をしているだろう。笑顔とは裏腹の真摯な眼に捕えられて顔を背ける事もままならず、静雄は精一杯無表情を取り繕った。
「静雄、俺はそんなに頼りねえか?」
投げ掛けられた質問に慌てて首を振る。口を開いたらとんでもない言葉が飛び出してしまいそうで、ぎゅっと引き結びながら。
「じゃあ困ったら俺を頼れ! 先輩としても上司としても、お前の力になってやりてえと思ってんだ」
「……はい」力なく応えた瞬間、再び心臓が締めつけられる。けれども今度は針を突き立てられた場所から何かどろりとしたものが溢れる気がした。「ありがとうございます」
「おう」
今更照れくさそうにはにかむトムに頭を下げる振りをして、静雄は歯を食いしばっていた。その間にも心臓からは大量に生産されていく。どろり、どろり。肺に満たされて息苦しい。
いつからだろう。トムの厚意を純粋に喜べなくなったのは。いつからだっただろう。差し出される『先輩』や『上司』という単語に醜い飢餓感を感じるようになったのは。
そう、飢餓感。心臓から這いずり出てくるものは、確かにそんな形容がただしい。そんなもの感じてはいけないのに。自分は誰からも愛されるわけはないし、愛されてはならないのに。
トムから手渡されるやさしさは、まさしく『やさしさ』以外の何物でもないとわかっているはずなのに。自分にはそれすらもおこがましいというのに。これ以上、何を求めているのだろう。
(何が物足りねえんだよ)
吐き出してしまいそうになるのを堪え、静雄は再び茶色の容器へ手を伸ばした。胸のあたりから湧き上がってくる不快感と一緒に飲み下すと胃が捩じ切れるようだった。
「今日の、なんか不味いっすね」
引き攣る顔を無実のキャラメルラテのせいにし、「そうか?」と言ってハンバーガーにかぶりつくトムから眼を逸らした。
口の中が、にがい。