「はじめまして、田中さん」
 仕事帰りに買ったビールやらつまみやらが入ったコンビニのビニール袋を右手から提げた田中トムは、老朽の進んだアパートの前、何となく聞き覚えのある声に振り向いた。 そこに佇んでいたのは、薄闇に溶け込むような黒を髪と瞳とジャケットに纏った男だった。月明かりにぞっとするほど白く映えるのは血色の悪い肌とジャケットについた大振りのフェイクファー。
「オリハライザヤ、か」
 実際に本人を見るのは初めてではないが、会話を交わす暇もなく後輩であり部下であるバーテン服の他称『喧嘩人形』が殺しにかかるものだから、確かに「はじめまして」という挨拶が相応しい。
「俺に何か用か?」
 だから接点という接点も持たないはずの、かの有名な情報屋が自分に会いに来る目的なんてまったく思い浮かばず、トムは純粋な疑問を顔に表して問いかけた。
「そうです。情報屋ではなく、折原臨也という一個人としてちょっと貴方に忠告――いや、警告かな。そう、警告をしておこうと思って」
 人好きのしそうな笑みを貼り付けた臨也の言う忠告と警告の差は解らないが、彼については色々と黒い噂を耳に挟んでいる。警戒心を態度に表さないようにトムが「何だ?」とそっけなく訊ねれば、臨也はクスリとわざとらしい笑い声を零した。 温厚な部類の人間であると自覚のあるトムでさえそうした仕草がどことなく鼻に付くのだから、短気な上に彼を毛嫌いしている後輩には堪ったもんじゃないだろう。
「そろそろシズちゃんを手放した方がいい」
「……それはどういう事情で、っつーのは訊いたらタダで答えてくれんのか? 情報屋さん」
 彼の提供する情報はメイドさんのコスプレをした女の子が働いている喫茶店くらいぼったくりが発生する、という噂のひとつを揶揄したトムに臨也が大袈裟なほど肩を竦める。
「別に情報料は取りませんよ。あくまで『折原臨也一個人として』の警告ですからねぇ」
「そりゃありがたい。ついでに、できれば酒が不味くならねえ理由ならもっとありがたい」
 トムも負けじとオーバー気味に肩を竦めてがさがさと音を立てて袋を持ち上げる。冷蔵棚で冷やされていたビールは夜になっても暖かな春の空気に汗を流しているだろう。
(あー、早く呑みてえ)
 呑気にも仕事後の贅沢な一杯へ想いを馳せていたトムだったが、臨也の『答え』によってアルコールより先に固唾を呑まされる事になる。
「例えばの話になりますけど」その声を聞いたと同時、右手にかかっていた重みが一瞬で消え去る。「一人で夜道を歩いている貴方をナイフを持った男が刺しにやってくる」
 それが、持ち手の部分だけを残して自分の手から袋が落下したからだとトムが気がついたのは、ゴトンと鈍い音が響いた地面に提げていたはずの袋があるのを目視し、次いで手の中の残骸の端が綺麗にすっぱり切り揃えられている事を確認した瞬間だった。
「そういう類の災厄が貴方に降りかかるからですよ」
 ははっ。耳元で乾いた嗤い声と共に白々しく言い放った臨也の手に握られた鋭利な凶器を視界に入れたトムの背中に、一瞬で冷や汗と戦慄がはしった。
「参ったな……色んな意味で酒が不味くなるじゃねーか」
「この状況でそんな冗談が言えるんだから、さすがはシズちゃんの上司、と言うべきかな」
 軽い調子で宣う臨也は最早笑ってなどいなかった。擦硝子のように鈍く光を反射する黒い眼は感情を示さない。
「確かに、このまま殺されてもおかしくねえ状況だな」
 トムがため息を吐きながら両手を挙げる降参のポーズを取ると、臨也は特に拘りの無いような素振りで身を引いた。
「俺が自分の手で殺すのはシズちゃんだけ。残念でした」
 いつの間に仕舞ったのか、ひらひらと振る右手にナイフは無い。残念も何もトムからすれば一応は命拾いという好都合な話であるのだが、これ以降に自分の命が危険に晒される事に変わりはなく、何より静雄の名前が出るのが気になった。
「あんたが静雄を嫌ってるのは何となく判るが、そこまでする理由があんのかね」
 緊張状態から解放されたトムは疑問を投げかけつつアスファルトに落とされた袋を拾い上げる。静雄が何かと怨嗟の的になりやすい事は否定しない。 しかしそういった悪感情の殆どが一方的かつ発端は相手側にあり、静雄から何かを仕掛けた事など知っている限りではまったくと言っていいほど無い。二人の因縁はトムの知り得ない高校時代にまで遡るらしいが、その頃から変わっていないだろうと確信できるくらいには静雄を理解しているつもりだ。
「理由? そんなの単純だ。あの子は俺が育てたんだから、殺すのだって俺の役目でしょう」
 袋から滑り落ちたスルメを拾う手を止め、トムはまじまじと、さっきまで自分に刃を向けていた男を見た。たった今聞いた言葉がまるで呪文か暗号だったかのように唖然とした表情で。対する臨也は、自分が然も真っ当な事を言っているとも言いたげな顔でトムを見返した。
「俺はずっと、それこそ高校で初めて顔を合わせる前からシズちゃんの力を買ってた。シズちゃんの身体は壊れれば壊れるほど強靭になる。誰かを守りたいと思った時なんか自分を守るためのリミッターが外れる。だから徐々に強くなれるように、あの子が守りたいと思ってる人間を襲わせたりしてね……俺も幼いなりに苦労したなぁ。 シズちゃんから逃げるためにパルクール――パルクールって知ってます? 特別な道具を使わず自らの肉体だけで障害を跳び越えたり、攀じ登ったり、その上から飛び降りながら移動する移動技術体系なんですけどね。まぁ、解りやすく言うと逃走術ってやつです。 そんな俺についてくるうちにシズちゃんも自然と身に付いたみたいで、粟楠会から追われてる時も相当役に立ったらしいし。やっぱり身体に教えた方が早い」
 研究の成果を自慢する科学者の口振りで話し続ける男に、先程とはまた違う、吐き気を伴う不快感が込み上げるのをトムは知覚した。次第に胃袋を掴まれているような圧迫感とわけのわからない焦燥がじわりと身体を蝕んでいく。
「中学の頃もあの子の周りは騒がしかったでしょう、田中先輩?」
 静雄を『あの子』と呼びながらにこり、と崩れた顔は、つくりもののように綺麗で、おぞましいくらい無邪気な破顔だった。
「計画通り、来神を卒業する頃には理想的な『バケモノ』になってくれた。俺の持ってる駒の中で一番単純で最強。キングの出来上がりだ!」
 哄笑にのせてプラモデルの完成を喜ぶ子供さながらに両手を挙げた臨也が、不意に笑い声を止めてトムへ向き直った。
「でも貴方のせいでシズちゃんは自分を『人間』だと勘違いするようになった」
 絶対零度の声がトムの身体を凍りつかせる。睨まれているわけでもナイフを突き付けられているわけでもなく、ただその一声がおそろしく不気味だった。その言葉に絡みついた憎悪や殺意、あるいは妄執にも似た何かが。
「静雄は普通に人間だろうが」
 渇ききった口をようやく動かして発した声は思いの外冷静に響いた。言い知れぬ嫌悪感はまだ残っているが、相手がただ平和島静雄に固執している人間であると思えば胃が竦む緊迫は自然と掻き消えた。
「人間を全てを愛する俺が唯一愛せないっていうのに、シズちゃんが人間? 笑えないなぁ」
「そりゃお前……」
 可哀相な奴だなあ。言いかけた言葉をトムは呑み込んだ。全ての人間を愛するというのは、結局誰も愛していないのと同じだ。そんな事を言ったとして、相手はこちらの言葉に耳を傾けはしないだろう。
「シズちゃんは人間になんてなれないんだ。だから誰にも愛されない。俺がそういう風に育てたんだから。貴方のやさしさをシズちゃんが愛だなんて勘違いする前に、貴方はシズちゃんを手放すべきだ」
 勘違いでもねえよ、と呟く頃には、折原臨也という可哀相な人物は背を向けて歩きだしていた。だからトムの独り言を聞いていたのかは判らない。
 小さくなっていく背中が完全に闇に紛れ込むのを待ってから置き去りになっていたスルメを拾い上げた。すっかり温くなってしまっただろうビール、それを一人で呑む憂鬱に溜息を吐き、トムは携帯を取り出してすっかり見慣れた番号を呼び出す。
「よ。今ヒマか? ああ、だったら家に呑みに来ねえ? あ、酒持って来いよ」
 今にも崩れ落ちそうな階段を上りながらトムは悩んでいる。これからやって来る可愛い後輩には、今夜の出来事と自分の中にある感情の正体はまだ黙っておくべきだろうか、と。

ぼくらの深夜対談

2010/