記憶が残っても、あなたが残らなければ
あれは確か障気の中和が成功して数日後の事。

いつもの如く悪夢に魘されるルークの、痛みと嗚咽を堪えた声を耳にするのも習慣になった。
途切れ途切れに聞こえる「ごめんなさい」という言葉も、小さな声だからそう聞こえるだけで、本当は息する間もなく呟かれているのだろう。
暫く知らぬふりをしていると、勢い良く飛び上がって浅い呼吸を繰り返す。上手く呼吸ができないのか、時折ひゅっと喉から息が漏れる音が微かに届く。
『知らぬふり』というのは、今まで生きてきた時間の中でどれだけしてきたのか解らないほどなのに、その行為に心を痛めたことはない。寧ろいちいち感傷に浸っていては軍人など務まらない。 たとえ軍人でなくとも、自分の感情が動く事自体在り得ない話なのだが。

漸く呼吸が整ったのか、深呼吸のように呼吸したあと、ひっそりと部屋を抜け出していく気配が感じられた。眠る事ができないと判断した時のルークの癖だ。
いつもはそのまま帰ってくるのを待つか寝てしまうかのどちらかなのに、その日ばかりはなぜか後を追ってしまった。
「私たちを気遣っているのでしょうが、生憎私にとっては逆効果ですよ」
そう声をかけると、ルークが驚いた様子でこちらを振り返る。そして気まずそうに顔を伏せてごめん、と短く謝罪する。
「何か眠れなくてさ」
魘されていた事を知られているとは思っていないのだろう。困ったように笑って再び前方を見る。
「明日の戦闘に影響するようでしたら有無を言わせず外しますからね」
「解ってるよ」
いつも通りの嫌味な軽口に返す返事も、どこか覇気がない。いくら何でも弱っている子供を虐める趣味は無いので、それ以上の発言は控えた。
「変な事訊いて良いか?」
「……内容にもよりますが」
背を向けて顔が見えないルークを眺めながら答える。何を言い出すかと思えば、また随分と突飛な事を。
「音素の乖離って、どんな感じなのかな」
先程の奇抜な発言に気をとられて予想だにしなかった質問に、顔を顰める。
「それは……解りません」
「ははっ。そうだよな。ほんとに変な質問でごめんな」
表情が窺えないにもかかわらず、無理に笑っているのが目に見えるようで。
胸が、軋む。
「死ぬってどんな感じなのかよく解らないけど、凄く恐い。何にも残んないのかって思うと、物凄く」
いつもなら勝手に口をついて出る言葉も、この時ばかりは何も浮かんでこなかった。それに今のルークの前では、どんな言葉も意味をなさないような気がした。
「さっ、そろそろ戻ろうぜ。ガイが起きて騒いだら洒落になんねーし」
漸くルークが振り向いたが、顔を見ることができなかった。胸の軋みが、一層酷くなるような気がして。
その後、ルークから同じ質問を投げかけられることはなかった。

昨日までは。

決戦前の最後の一夜。アニスと多少会話を交わしてケセドニアの宿屋に戻る前、ルークに呼び止められた。
「ジェイド、ちょっといいか?」
少し緊張した面持ちの笑みを貼り付けた口から言われたのでは、断るにも気が引けた。 だがそれは、本当はルークと一緒に居るのも悪くないと思っている自分への言い訳であることに気付かないふりをする。
「あのさ、前俺が部屋抜け出した時にお前にした質問、憶えてる?」
「……音素の乖離の話、ですか」
「そう、それ」
気まずそうに俯いたその姿が、いつかのそれと重なる。あれからずっと考えていたのだろうか。――誰にも言わないまま、ひとりで。
「あの時俺、死ぬのが恐いって言った。何にも残らないのが恐いって」
目を伏せて、ただ聞き役に徹する。あの時のように、言葉を紡ぐべきではないと、なぜか確信めいた気持ちで。
「でもそれが間違いだったって気付いた。やっぱり死ぬのは恐いけど、何一つ残らないわけじゃないって」
そう言うと不意に顔を上げ、目を細めて笑う。いつ死ぬかも解らないと言われた人間とは思えないほど、穏やかな笑顔だった。
「確かに俺には何にも残らないかもしれないけど、でも皆の記憶には残るだろ? だからさ――」
思わず目を見開いて凝視する。だが映るのは、先程と変わらず穏やかな笑みを湛えたままの大人びた子供だった。
「だから忘れないでほしいんだ。たまにでいいから、思い出してほしい」
何を馬鹿なことを。そう言おうとしたが、その澄んだ瞳の光で、強がりでも偽りでもない事を悟って口を閉ざす。
「……どうして私に言うのですか?」
「俺の身体の事知ってるのジェイドとティアだけだろ。ティアにも言おうとしたけど、言えなかった。多分ティアには重荷だから」
「ティアは良いとして、私に対する配慮は無いんですか」
半ば呆れたようにため息を吐いてやれば、ルークは声を出して笑う。まるで幸せそうに、笑う。
「ジェイドは大人だから良いんだよ。それにお前すぐ忘れそうだし、一応念押しとかないとな」
失礼ですね、と言えば、いつも年寄りくさいこと言ってる癖に、なんて嫌味を返される。
「……じゃ、俺もう寝るわ。おやすみ」
「ええ。明日は色々大変ですからね。おやすみなさい」

ひとり宿へと向かう背中を見送りながら、呟いた声は風に攫われてきっと届かない。






ローレライを解放するため、ひとり崩れかけているエルドラントの中に残るルークを、仲間に気付かれないようそっと振り返る。
そして昨夜風に攫われた言葉をもう一度、呟いた。
「忘れられるわけがありませんよ」



初めて愛したあなたの事を。




何一つ残らない



2006/06/22 一部修正。
(原文)2006/05/06