最後だから、と呟く言葉を遮るように塞いだその唇は、今にも泣き出しそうに震えていた。
だけど幾ら塞いだところで、その言葉が現実になる事を避けられないのは解っているのだ。
決戦前夜の月は、昼の喧騒とは掛け離れた閑寂なケセドニアを青白く照らしていた。
そんな街並みをアルビオールから見下ろして、ルークはジェイドに言った。
最後だから。
お互い解っていた。この戦いが終わればきっとルークは消えてしまうだろう。だからこそ言えなかったのだ。
その事に傷つくと理解していても、それ以上に想い合っていると。
「ジェイド、俺のこと、忘れて」
「何を」
「忘れて、幸せになって。俺の、最後の願いだから」
抱きすくめてキスをして、何も言えないように腕に閉じ込める。
「どうして、そんな事を言うんですか」
「だって俺はもう――」
涙を堪えて見上げる瞳は、それでも落涙することは無い。思い返せば、いつもそうだった。
いつもあどけない表情をころころと変えて突拍子も無い事をするくせに、悪夢に魘される夜も、近しい人たちの死を目の当たりにしても、自分の死を前にしても、その瞳から涙を流す事はしなかった。
「あなたが居なければ」
だけど解っていた。泣かないのではなく泣けなかったのだと。
「あなたが居なければ、私が幸せになることなんてありえない」
胸襟を開く事を潔しとしない男が本音を言ったのも、決して涙を見せる事がなかった彼がその言葉に涙を流したのも、この夜が最初で最後だった。
最初で最後
互いに顔を見合わせないまま、夜の静寂に包まれた街を見下ろす。
昼の騒がしさはどこへ消えたのかと不思議に思うくらい、その落差が不安を掻き立てた。
一方で嵐の前の静けさとはこういう事なのかと考えている自分は、やはり混乱しているのかもしれない。
この夜が明けたなら、大好きなひとたちの命に手を掛けなければならない。
そして、隣に居る最愛のひとさえも喪ってしまうかもしれない。
こんなにも夜明けが怖いのは初めてだった。昔は独りの夜に怯えて、窓から差す光を求めていたのに。
「なんだかさ。妙な感じだよ。今、すごく幸せだなって思うんだ」
不意にそんな言葉を投げかけられ、更に混乱せざるを得なくなった。
そう言った彼の微笑みがやわらかいのに切なげに、寂しげに深くなっていくのを見て、詮索するのを憚られる。
本当に幸せそうなのにどこか痛みを伴っているような、そんな笑顔。
だけどこの夜が明けたなら、あなたはきっといつものように笑うのだろう。
仲間の言葉に屈託なく笑って、自分のなかの不安や恐怖や悲しみというものに蓋をするように、笑うのだろう。
こんなにも彼を苦しめているのは過去に犯した罪なのか、それを咎めた自分たちなのか。どちらにしたってもう、取り返しがつかない。
ならばせめて。
あなたが幸せだと言うこの夜を、少しでも長く一緒に。
夜が明けたら
皆気付いてるはずなのに、誰も何も言ってあげないなんて。
そう思う自分だって、怖くて何も言えないくせに。
「明日はとうとうエルドラント突入! だね! 総長とまた戦うなんてドッキドキ〜」
「そうだな……何だかんだ言っても師匠強いし。でも明日は何があっても倒さなくちゃな」
ああ、失敗した。気を緩めてあげようと思ったのに、これじゃあ逆効果だ。
思い返せばいつも、ルークに関しては上手く立ち回れた事がないような気がする。それこそ最初は玉の輿なんて狙って可愛らしく振舞っていたものだけれど。
アクゼリュスの一件があってから、散々酷いことを言った。何かにつけ蔑むように嫌味を言って、確かにあの時とは変わったのだと感じていたのに繰り返した。
もしかしたら同属嫌悪だったのかもしれない。
本当はそんな資格なんてなかったのに。
ずっと皆を騙して、大好きなひとの命さえ奪って、当然の痛みなのに涙を流して逃げた。
だけどそれを慰めてくれたのは散々罵ったはずのルークで、どうしてだろうと思いつつも甘えてしまう自分に嫌気がさしたけれど。
けれど、そんな私を許してしまうルークは、やっぱりあのひとの言ってた通り優しいひとなんだとその時になって初めて知った。
それなのに。
それなのに私はルークを救う術をしらない。ただ目の前のやるべき事に向かうしかなくて、その結果また大切なひとを喪うと解っているくせに。
「ねールーク」
心情を悟られないよう、努めていつも通りの軽い口調で呼びかけると、ルークもいつも通りの軽い調子で答えた。
「明日ぜーんぶ終わったら、またフローリアンのトコ行ってあげようね!」
にっこりと笑ってみせれば、酷く痛みを堪えたような笑顔で首肯された。
ああ、私はなんて惨酷なんだろう。
気付いているくせに、解っているくせに。
だけどこんなにも嘘が下手だとは思わなかったから。
心のなかだけで傷つくしかない、そんな嘘をつくくらいなら、いっそ目の前で泣き叫んでくれればよかったのに。
嘘をつくなら
こんな事を言うのは、ずるいのかもしれない。
繋ぎとめる言葉なんて、あのひとを好きな自分が何を言っても薄情けにしか聞こえないだろう。
だけど生きていてほしいと願うのも、その言葉も本心だから。
夜のケセドニアは閑寂としていて、だけど熱気が下がる事もなく、どこか不釣合いな印象を受ける。
見上げた夜空には星が犇めいて、なのにひとつとして同じ輝きは無かった。
その光景に、いつかの情景が重なって、ふと思い出したように呟く。
「こうしていると、昔の事を思い出しますわ」
言われた当人はいつの事を言われているのか解るはずもなく、困惑した表情を浮かべていた。
「あなたが帰って来て間もない時に、ガイに手伝ってもらって屋根の上で星を眺めたのです」
実際その時ルークは生まれて間もない上、周りの環境も忙しいものだったから憶えていないのも無理はない。
だが返ってきた答えは、予想外のものだった。
「ああ、あれか。星がすっげー綺麗で見入ってたら、いつの間にか眠っちまったんだよな」
そんで後でめちゃくちゃ叱られたっけ、と楽しそうに話す姿に、やはり違うひとなのだと思った。だけどそれは決して嫌な違和感ではない。
そんな事を考えて黙ってしまった様子を見て何を思ったのか、俯きがちに呟かれた一言に酷く胸が痛んだ。
「ごめん。本当はここに居るべきなのは、アッシュなのにな」
確かに未来を約束したのはアッシュであり、その想いは今でも変わらない。だけど七年間一緒に居たのは目の前に居るルークであり、その成長を目の当たりにしてきた。
同じようなときめきを覚えるほどには、多分、迷っているのだ。
はっきりと決める事ができないのは、国を統べる者として誉められたものではないのは解っている。
だからこんな言葉は、言ってはいけないのかもしれない。
だけど言わずにはいられないのだ。
「忘れては困りますわ。私が婚約したのは『ルーク・フォン・ファブレ』ですのよ? アッシュもあなたも、私にとっては大切なひとだという事に変わりはありませんもの」
静かに、だけどはっきりとそう告げると、驚いたような視線とぶつかった。
そして返されたゆっくりと切なげに口を歪めた微笑が、今まで見た誰のどんな笑顔より悲しくて泣いてしまいそうになるのを堪えた。
もう戻れないあの日に夢から醒めたあと、この夜ととてもよく似た気持ちになったのを思い出しながら。
懐かしい夢
自分のすべてだった世界を壊されて憎んだはずの人間を、だけどそれから自分のすべてになったのに、また奪おうとしているのは世界。
いつだって自分のほしいものは、手に入る寸前で壊れていく。
ああ、それならばいっそ――。
眼下に広がる街並みは、いっそその静寂を打ち壊してしまいたいほど平和なように思えて、そんな思考を振り払うように緩くかぶりを振った。
同じ様に街を見下ろすルークは、先程から一度もこちらを見ずに押し黙っている。
「なんだ? 緊張してるのか?」
「うん……。だって明日になったらぜんぶ、終わらせなきゃいけないだろ?」
何を、というのは愚問だ。
この旅が始まった原因。世界を滅ぼそうとしている男。かつて志を共にした同胞の行き過ぎた怨念を、この手で。
それ以外に、その言葉に意味は無いはずのに。
「そうだな。昔俺が望んでた世界もホドも、思い出のなかだけで充分だ」
「そっか」
そう言ってルークは漸くこちらを向いて、不安や恐れを晦ますように微笑んだ。
自分が知っているルークは、こんな顔をする事なんて無かった。いつも真っ直ぐすぎるくらい、感情と顔が直結しているように表情を変えた。
それなのに最近は何か物思いに耽るように考え込んでいたり、遠くを眺めていたりする事が多くなって、皆と笑っている時でさえ痛みを堪えるような、そんな笑顔だった。
その理由が何となく解ってしまうのは、きっと誰よりも傍でルークを見てきたからだろう。
だけど知らない振りをしているのは、認めてしまえばそれが現実になるような気がして怖いから。
誰よりも手を掛けて、誰よりも心を注いで、誰よりも必要とした。
もはや自分のすべてとなった存在を、喪ってしまうのが怖かったから。
いつだって、掴んだと思えば壊されていく大切なもの。
明日、目的を果たしてしまえば自分の世界のすべてとなったルークは消えてしまうのだろう。
だけどもし、目的から逃げてルークを連れ去ってしまえば、世界が終わるまで自分の世界を護ることができる。
そう考えていた最中、衝撃を伴って耳に届いた言葉は、愚かな選択肢を崩し去った。
「俺も、今のまま世界が続いてってほしいって思う。大切なものが壊れてくのを見るのは、もう嫌だから」
本人が望まない事を、させられるはずがない。たとえそれが強がりで、諦観の果ての願いだとしても。
「ああ。俺もだよ」
たとえ世界が救われたって、自分の世界は明日終わってしまうだろう。
何よりも大切なものを喪うのだから。
ラストワールド
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