あした あなたは 笑ってくれるだろうか
まるでやわらかな焔のようだと思ったのは、彼が髪を切って少ししてからの事だった。
出逢ったころはさながら鮮烈に燃え盛る炎を思わせた彼の長い髪も、今ではばっさりと切り落とされている。
鮮やかな事に変わりは無いのにそう感じたのは、きっと彼の大きな変化と自分の僅かな欲目のせいだろう。
今では髪だけでなく、彼自身が天の火のように自分を不思議な力で惹きつけていた。


シェリダンの宿屋の一室。普段ふたりきりに成り得ない人物が、それと同じくらい珍しい光景を繰り広げていた。
あまいろの長い髪を後ろでシニョンに纏めたティアは、どうしたものかとしばらく逡巡する。
こんなことをするのは初めてで、知識が少しだけあるとはいえ、それに伴う技術なんて持ち合わせていなかった。
「あの、ティア……?」
「……ほんとうに良いの?」
「ていうか俺が頼んだんだし」
「そうね。後悔しても知らないわよ」
その言葉に、翡翠の瞳にすでに後悔のいろが過ぎったのを見て、ああ言わなければ良かったと同じ様に悔やんでしまったティアは深く息をついた。
そもそもこんな事になってしまった原因は、ルークが髪を切ってしまったことだった。


ちょっとした用事でシェリダンへ向かうことになった一行は、アルビオールの性能の関係で近くの浜辺に着陸したのだが、運の悪いことに敵に捕まってしまった。
然程てこずるような敵ではなかったものの、ルークの様子が少しおかしい事に気付く。
バチカルでルークの身体の危うさを知ってしまったティアにとって、それは青ざめてしまうには充分な理由で、咄嗟に問い質してしまったのだった。
すると返ってきた答えは拍子抜けするもので、不安と共に深く息を吐き出した。
「伸ばしてた頃は全然気になんなかったんだけど、なんか半端に伸びるとうざったくてさ……」
長年伸ばしていた髪は結構な重さと手間があったらしく、一気に切ったことでそれらから解放されたルークは半端に伸びた髪が邪魔になってきたらしい。
「そろそろ切りたいんだけど」
それも面倒くさい、と笑うルークのその言葉に、その時は軽く流していた。
シェリダンに着いた途端、ガイは正に颯のごとく姿をくらました。シェリダンに用事があると言ったのはガイなのだから それは当然なのだけれど、あからさまに顔を輝かせて走り出す様を見ては流石にもうため息すら出なかった。
今は特別急ぐような事もなく、今日はここで一晩泊まる事になっているからいいものの、あの様子ではきっと日が暮れる頃になっても戻ってこないだろう。
そのガイが戻ってくるまで自由行動となったが、生憎このシェリダンには自分の好きな可愛いものもないし、特に心惹かれるものもないので、 ガイが居ない間に取った宿へと足を運んだ。
しかしそれはルークも同じだったらしく、宿へ向かう途中で出くわした。
「ティアも宿行くのか?」
「ええ。特に用事も無いし……」
「じゃあさ、悪いんだけど髪切ってくんねーかな。ガイに頼もうと思ったんだけど居なくなるし、他の奴にまかせんのすげえ怖い」
「ごめんなさい、私……」
「それに明日には何が起こるかわかんねーし」
意図せず言ったであろうルークの言葉にひとり敏感に反応してしまったティアは、斯くして思わずその頼みを引き受けてしまったのだった。





「ほんとうに良いのね?」
「頼むからこれ以上不安にさせないでほしいんだけど……」
「解ったわ」
躊躇う気持ちを振り払って椅子に座るルークの後ろ毛を一房持ち上げると、宿屋の主人から借りたはさみをすべらせた。
ろくに手入れもしていないと本人が言う紅い髪は、それでも癖がなくなめらかで、大抵の女の子なら誰でも羨むだろう。 ティアもその例に漏れず、その質感に一瞬でも思わずうっとりとしてしまった。


部屋には暫く穏やかな沈黙と、しゃきん、という鋭い音が響いていた。互いに何か言うでもなく、ただリズミカルな音と呼吸だけを包むその空間を味わっていた。
今まで忙しく駆けて来た時間を取り戻すかのようにゆっくりと。
思い返せば、こんなにゆったりとした時間はほんとうに初めてなのかもしれない。
出逢った頃は今のように必死なわけではなかったが、平穏とは言い難い空気が漂っていて、寧ろそんなものとは掛け離れた居心地の悪い時間が過ぎていった。
やわらかな雰囲気になった今でさえ、誰もが剣呑な想いを抱いて目的へと歩んでいる。
そしてきっと、いちばん苦しんでいるのは目の前の彼なのだろう。
それなのに何もできず、ただただ見守るだけで。
ふと視界が揺れたことで、自分が泣きそうになっていることを知る。
泣いていいはずがないのに。だっていちばん辛いのは彼で、いちばん泣きたいのも彼なのに。
かすんだ瞳に揺れる紅が、まるで天の火のように舞い落ちていた。
音もなく流れる涙も止められず、それでももう切るべき髪は切り終えてしまって、手を止めるしかなかった。 そのことに気付かないはずがないのに、ルークは振り返らなかった。
気付かれたと覚悟して、涙を拭ってから廻りこむ。心を決めて見つめた先には、安らかな寝顔があった。
こんなに穏やかな顔を、そういえば最近見たことがなかった。いつもどこか遠くを見ているような、そんな切ない顔ばかり見ていた気がする。
その瞳に自分は映っているのだろうかなんて胸が痛むことも多くて。
一度止まったはずの涙が、また頬を伝う。
こんなにも好きなのに、こんなにも無力な自分が遣る瀬無い。このひとのためなら何でもできるのに。
「なに、泣いてんだよ」
どことなくぼんやりとした口調で聞こえた言葉に、はっと顔を上げる。
「俺、なんかした……?」
「ちがうの、何でもな……」
最後まで言うことができなかった言い訳は、驚きのあまり喉の奥へと落ちていった。
眼前に広がる白がルークの服だと気付くのに、さして時間はかからなった。
「ティアに泣かれるのすげえ苦手だから、泣くなよ」
強くはないのに、しっかりと回された腕は確かな優しさと安らぎを伝えた。
こんなにも好きなのに。こんなにも胸が痛むのに。
ただ明日、あなたが笑ってくれることを祈るしかできない。
「……この次もあなたの髪、切っていいかしら」
「泣かないならな」
「泣いてないわ」
茶化すような承諾を得て、強がって見せるのがやっと。
「でもティアに頼んでよかったよ。今までガイにしか頼んだ事なかったから。ありがとう」
礼を言うのは自分の方だ。そんな風に心をゆるしてくれて、ありがとう。
「次も頼むよ」
声も出せず首肯したティアに、まだ泣いてんのかよ、とルークが優しく頭をなぜる。
やわらかな焔はこんなにもあたたかい。切なくて、愛おしい。
ふたり安らかに明日を生きていく術も持たないけれど。


今度また床に天の火が降るころに、こうして笑ってくれたなら。




天の火が降るころに



『あした あなたは 笑ってくれるだろうか』
卯月の頃/Cocco
【天の火】天から降る神秘的な火。
2006/05/25