1時間後には56%を忘却し、44%を覚えていた。
1日後には74%を忘却し、26%を覚えていた。
7日間後には77%を忘却し、23%を覚えていた。
30日間後には79%を忘却し、21%を覚えていた。
ゆるやかに褪せる、あなたのすべて。
すっかり旅慣れてしまった体は、一日中机に齧りついているしかない書類決裁の作業で鈍い疲れを感じていた。 それでなくてもただ見るだけですら軽い頭痛を覚える程なのに、それが机の上に山積みになっていれば尚更疲労感が増すのは仕方が無い事だ。
――あの1年間にも及んだ旅を終えてから、もう1ヶ月が過ぎた。日数に換算すれば約60日。 グランコクマに戻って間もなく、その間の変化によって起こったキムラスカとマルクト間のあらゆる課題や オールドラント中に蔓延るレプリカ問題の類の対策や事後処理に追われる日々が続いた。
そんな忙しい時間の中でもたったひとつ、ジェイドの頭から離れないものがあった。
たったひとつ、後にも先にも最初で最後の恋人の面影。
もうこの世界に存在しないと己が一番よく知っているというのに、未だに上手く理解できていない自身に酷く驚いた。 今までどんな事でも割り切り、時には切り捨てて【死霊遣い】とまで呼ばれる事に違和感すら持たなかった己が、未だに心掻き乱されている。
思い返せえばそんな風に心が揺れた事など、幼い頃ネビリムを自分の愚かな過ちによって殺めてしまった時以来だった。 しかし彼に対してはそれとは違う――有り体に言えば愛情と呼ばれる――類の揺らぎだった。
「あなたがこれを聞いたら笑うでしょうね」
決して聞こえる事は無いと知っていながら、言葉と共に自嘲気味な溜め息を吐いた。もう何度目になるのかさえ解らないそれを静めて、 書類ではなく最近手をつけ始めた書物を捲りつつソファへと寝転がる。
馬鹿な事をしているという自覚はある。だが、どうしてもやめる事ができないのだ。
私はもう二度と――……。
その言葉が果たして声になったのかを、ジェイドは確かめぬまま緩い眠りに墜ちていった。
「ジェイド、寝てるのか」
耳に馴染んだ、だが久しく聞いていなかった幼馴染みの声に意識が戻された。軽く済ませようと思っていた睡眠は思っていたよりも深かったらしく、 窓から差し込む紅い光がもう夕刻だと告げていた。起きしなの目には痛いその鮮やか過ぎる光は、彼の髪を思い浮かばせるに充分だった。
そうやって少し微睡みの余韻に浸っていると、ピオニーが徐に、ジェイドが先程まで読んでいた『長期記憶と忘却』と題された本をパラパラと捲る。
「寝過ごしましたね」
「お前最近寝てないだろ。いくら忙しいったって睡眠時間ぐらいは作れるくせに」
「眠れないんですよ」
「新しい研究をしているから? それとも夢を見るから?」
何の、と言わずとも、ピオニーの言わんとしていることはすぐに解った。そしてその口調は最早確信を得ているものであり、否む気すらおきない。
あの日からずっと同じ夢を見る。繰り返し繰り返し、最後に焼き付けた彼との別れの瞬間を。もしかすれば夢ではなく記憶の再現なのかも知れない。 忘却を望まない本能が、何ひとつ違わずいつでも彼を思い出せるようにと。
「それはお前の問題だから、俺がどうこう言う気は無い。けどな、人は思い出だけでは生きていけない」
「そうでしょうね」
生きているから。進まなければならないから。美化された不動の甘美なだけの過去だけでは、歩くための糧にすらならない。
だが、ジェイドは断じて思い出に縋るために記憶の研究をしているわけではない。たとえそれが詭弁だと言われても否定の言葉を並べる気も更々無いが。
「――少しずつ、なくなっていくんです」
先程より更に濃くなり、まるで燃えるような紅の光を見つめながらゆっくりと呟くと、ピオニーの視線がジェイドへ向けられた。 普段は煩いくらいに賑やかだが、その場の雰囲気を敏感に捉えられるところがこの男の美徳のひとつだとジェイドは思っている。
そんなピオニーに構わず、ただ独りごちるように言葉を続けた。
「それは緩慢すぎて、見ぬ振りをすれば気付かないんですが」
だがジェイドは気付いてしまった。その微細で漠然とした変化に。
最初に忘れたのは温もり。次に忘れたのは触覚。
最後に触れた左手の、紅くなる頬の、重ねた唇の、抱き合った時の己よりも少し高い、彼の温度が、感触が少しずつ緩やかに喪われていった。
そして交わした言葉やくるくると変わる表情や、それに伴って変化する声。彼に関する全ての情報がぼんやりと不明瞭なものになって、やがて消えていく。
今こうして彼の髪を彷彿とさせる夕陽の色さえ、それが全く違うものなのか酷似したものなのかさえ確かめる事はできない。
そうやって緩徐に少しずつ彼を形作るものが喪われていく事を、何よりも恐れているのだ。ゆるやかに褪せて真白になるその瞬間を。
「生きている限り、記憶はどんどん喪われていく。まるで曲線を描くように些かの滞りなく滑らかに」
だから何もなくなってしまう前に、その前に。
「私はもう二度と、ルークを喪いたくはないんですよ」
忘却曲線を止める術を探さなくては。
2006/11/08