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予期せぬ雨に打たれて足止めを喰らった一行は、どうせ日の傾き始めたこの時間帯からではこれ以上動けないという結論に至り、近場の宿で休むことにした。
部屋割りの絶対的な原則は男女別室であり、それ以外は適当にくじを引いたり打ち合わせて決めたりすることが多い。そのためルークと相部屋になったのは実に久しぶりだった。
ルークは部屋に入るなり本を読みふけるジェイドに一声かけると、先に風呂に入っていった。
ジェイドとしてもその方が都合がいい。いくら察しの悪いルークでも本の種類を知れば、少なくとも良い気分ではいられないだろう。すでに今日だけで数冊目となる音素学の本へ目を走らせながら、 ルークが風呂から上がる気配を感じて本をしまう。
ジェイドが探していたのは、あからさまに言ってしまえばルークが助かる方法だった。たとえそれが小数点以下の儚い可能性であっても。
「ジェイド、風呂あいたから入れよ」 濡れた髪をがしがしとタオルで拭きながらそう言うルークに、少しばかりの違和感を覚える。それは本当に、気にかけなければすぐに消え去ってしまう程の小さなものだったが。
戦闘と合間の読書と考察を繰り返し、幾ばくか疲れが出ているのかもしれなかった。こういう日は早く休むに限る。ただでさえ何が起こるか解らない旅だ。休める時に休んでおくのも大切だろう。
「そうしますかね。あなたも何時までも起きてないで、早く寝るんですよ」
子供を宥めるような口調で言ってのけると、子ども扱いすんじゃねえ! と予想通りの答えが返ってくる。本当に解りやすい子供だ。それは単に実質七年しか生きていないということだけではなく、 ルーク自身が純粋でまっすぐだからであると最近思い始めている。以前だったら持ち得ないそんな感情や憶測に、僅かでも戸惑う自分に自嘲した。自分にはそんな資格など無いと解っているからこそ。
だから気付かなかったのかもしれない。己への違和感を消すことで精一杯で、相手の違和を見過ごしてしまっていた。
普段より少し長めに入った風呂から上り、長い髪を後ろで束ねてルークが眠っているだろう寝室へそっと足を忍ばせる。
だが予想に反してまだ起きていた相手の後姿に、半ば呆れつつ声をかける。
「私は早めに寝るように、と言ったはずですが?」
その声に弾かれるように振り返ったルークは、ふっきれたような、でもどこか憂いを帯びた顔をしていた。七年生きただけの子供とは思えないその表情。途端、一時忘れ去っていた違和感が膨れ上がるような感覚を覚える。
それはジェイドの思考を敏速にさせるのに充分だった。先程の違和感の正体を、だが表情には出さずに探る。
そしてその違和感の正体を見つけると、ほぼ確信したように近づいて腕を掴む。
その足元にはかつてグラスだったであろう透明な破片が、手には、普段眠る時には外されているグローブが嵌めてあった。ルークが言葉を発する前にそれを引き剥がす。
「……っ」
その痛みと共に呑み込まれた息は、どちらのものだったのか解らなかった。それはきっと想像以上の光景が目の前にあるからだと、妙に冷静な頭がそう判断した。
「何を、やっているんですか」
怒りともとれるようなその声音に僅かに俯くルークの表情は、悪いことだと知っていてもそれを敢行した後の子供のような、途方に暮れたものだった。
そんなあどけない表情とは不釣合いな、右手首に刻まれた痛々しいあかい線にジェイドは思わず顔を顰める。
「……落ち着くんだ」
ぼそりと呟かれたその言葉を、しかしはっきりと聞き取った。だが言うべき言葉が見つからずに、ただ先を促すように沈黙する。
「落ち着くんだ、こうしてると。まだ痛みを感じるってまだ大丈夫だってまだ生きてるって思えるんだ」
堰を切ったように喋り続けるルークを、何もできずに見つめるしかできなかった。
「アッシュのレプリカでもどれだけ人を殺してても俺の血は他の人たちと同じ様にあかいんだって確かめられるんだ」
それの何が悪い?
無表情なルークから発せられる此方の方が胸の痛くなるくらいの悲痛な訴えは、それさえ彼自身を傷つける鋭利な刃物のようだ。 思った以上に深く肉を裂いているその傷は、今も血を滲ませている。だがその心はそれ以上に深く深く抉るような傷が無数にあるのだろう。決して塞がることの無い傷を、あまつさえその傷を増やすことでしか安らぎを得られない。
何て愚かしくて滑稽な話だろう。何て不器用なのだろう。
自分自身で傷をつけるくらいなら、然るべき人物を傷つければいいのだ。憎んで憎んで憎んで、それを糧に生きていけばいい。
なのにどうしてそれをしない? どうして己を恨まない?
勝手に命を与えておいて、勝手に責任を押し付けて、勝手に命を捨てろと言って、勝手に死ぬなと言うこの傲慢な人間を、どうして憎まない?
掴んでいたままの腕を軽く引き寄せて、まるでいつくしむ様に抱きしめる。
「悪いだなんて、言いませんよ。それであなたが生きていけるのなら」
言いながら、己が本当に狡くて卑しい人間だということを実感する。
傷ついてほしくないと行動で示しておきながら、だけどそれで生きていけるならそれでいいだなんて言ってみせる。
結局は側に居て彼が笑っていてほしいという、自分の欲求を通すのだ。
子供の部分に甘えるなと窘めておきながら、いちばん甘えていたのは自分だった。
子供だから自分自身を傷つけることなどしないだろうと言い訳して、僅かながらも重要な違和感を見過ごしていた。
そんな己はどこまでも、傲慢で卑しくて穢い人間だということを、今更のように思い知る。
彼の腕に刻まれたあかい線は、彼の純粋さの象徴だ。誰かを恨むこともせず独り罪を背負うその純粋さの。
ただ静かに腕の中で涙を流すルークを抱きしめながら、そのあかい線はまるで浅劣な自分と純粋無垢な彼との境界線のようだと、自嘲気味に嗤うのだった。
2006/05/15