それは命という名の、
わたしの糸は緩んでいくのに、あなたの糸は張り詰めていく。




ふと、目の前を歩いている青年の服からほつれた糸を見咎めて、ティアはその青年を呼び止めた。
「ルーク。服がほつれているわ」
え、と言いながらルークと呼ばれた青年は、ティアが指差す箇所に目をやった。
「あー……。さっきどっかに引っ掛けたのは気付いてたんだけど……」
そう言って頼りなく笑ったルークは、躍起になって糸を切ろうとしている。
注意力がありませんねえ、なんて嫌味を言うジェイドや、優しく声をかけるガイ。 アニスが子供っぽーいとルークをからかって、それにムキになるルークにナタリアが本当ですわね、と呆れた声で言う。 ミュウは必死になってルークを庇っている。

幸せな光景だと思った。
こんな幸せを噛み締める時間は、あとどれくらい残されているのだろう。
そう考えると背筋にぞっと冷たいものがはしる。頭を軽く振って、心の中で自分を叱咤した。
そんな事を考える自分が許せなかったし、何よりその事をいちばん危惧しているのが本人であるからこそ自分がしっかりしなくては、と思った。
アクゼリュスの一件から、ルークは人の気持ちに過敏になった。きっとまた見放されるのが恐いのだろう。
そんなルークに対して今、ティアが不安や懸念を抱くのなら、それに気付かないはずがない。
何よりもルークは残りの時間を笑って過ごしたいと願ったのだ。ならばその願いを叶えなければならない。
見守る者として。そして、想いを寄せる者として。
ティアが物思いに耽っていると、ルークに名前を呼ばれた。何度か呼ばれていたらしく、少し気遣う様子で訊ねられた。
「ティアがぼーっとするなんて珍しいな。体調でも悪いのか?」
「いいえ、大丈夫よ。それよりどうしたの?」
自分が発した声音のやわらかさにはっとして、段々と火照っていく顔を隠すように俯いた。
こうして自分の微かな変化に気が付いたのはいつからだっただろう。リグレットのような軍人になるために自分を律して感情を抑えてきた筈が、ルークといるとそれが弛んでしまう。
まるで張り詰めた糸が緩むように。
「ナイフ貸してほしいんだけど」
先程僅かに揺れていただけの糸が、少しだけ長くなっていた。無理に断ち切ろうとしたせいで余計にほつれてしまったらしい。
「……いいわ。私が切るからじっとしてて」
少し怪訝な顔をしてから、暫く経ってありがとう、とルークが笑った。きれいなきれいな笑顔で。
その笑顔を見て、胸が締め付けられるような苦しさと切なさがおそった。その理由は考えてはいけないもので、考えたくもないもの。
ルークはあれからよく笑うようになった。ありがとうとごめんなさいを言うようになった。人を気遣うようになった。
その笑顔と言動の裏には、彼には到底耐えられないと思っていた罪の意識、理不尽な運命を乗り越えてきた葛藤があるのだとここにいる皆は解っている。
加えて彼の手は夥しい量の血に塗れているというのに、その命は哀しいほどに無垢でまっすぐなのである。
そしてその真っ白な至純の命は、張り詰めた細い糸のように危うい。 ひとたび鋭利な刃物に触れれば、その糸は忽ち途絶えてしまうだろう。
そこまで考えて、自分の手の中にある糸を見つめる。
これから自分が行おうとする行為こそ、比喩的ではあるがルークの運命を示唆するようだと、ティアの動作を緩慢にさせる。

ああ わたしは こわいんだ。
まるで今初めて気付いたかのように、漠然とした心の中で呟く。
そして目の前の彼に悟られないよう、至極おだやかな表情で、やわらかな口調で告げた。
「ルーク、たまには休息も必要だわ。気を張ってばかりでは疲れてしまうもの」
「ティア――」
一瞬驚いた顔をした彼は、言葉を継ごうとしてそのまま呑み込んで微笑んだ。
そしてほつれた糸を断ち切ったティアに、もう一度ありがとうと笑う。

再び歩き出したルークの背中を見つめながら、何度でも何度でも祈る。
彼の命を断ち切る刃が、避けられない運命だと云うのなら、どうかどうか。


これ以上愛しい彼の命が張り詰めないように。


白く細い糸


2006/04/17