明らかな消失だ、なのに何故。 
考えてみれば、あのひとは今の僕にとっての全てみたいなものだった。全て、と言ったら大袈裟な気もするが、今の自分の多くを占めているのがバスケなんだからそうなんだと思う。
バスケをするには致命的な身長で、周りからも無理だと言われ続けて、それでもやめようと思えないのは、技術云々の前にバスケの「楽しさ」という、いちばんたいせつなものを彼女に教えてもらったからだろう。
車谷由夏。
それが尊崇にもちかい感情で憧れる、彼女の名前だった。そして今目の前で空を見上げているちいさな彼の、母親の名前。
「車谷君」
すこし慣れない響きでそう呼べば、伏せ目がちだった彼女とは対照的に大きな目を見開いて振り返る。
「びっくりしたよ」
言葉とは裏腹に大して驚きもせずに呟いて、どこか遠くを眺めているような視線で僕を捉えた。
「いきなり飛び降りて来るし、かなりウマいし」
びっくりしたというのは、呼びかけに対してではなく試合中の話だったらしい。確かに突然だった。衝動に任せて、気づいたらコートの上で呼人に叫んでいた。
だって止まれなかった。憧れ続けた彼女の、僕よりもちいさな子どもが焦がれ続けたコートに立って、届かないその場所でプレーしているその姿を見て心音が加速した。 今じゃなきゃ、ダメだ。それだけが焦燥のように身体中を駆け巡って。
あの時の高揚感はきっと、忘れられない。たとえこれ以降に納得以上の試合をどんなにしても、それとはまた違う特別な満足感とともにずっとあり続けるのだ。
「それにさ、母さんみたいだった」
不意にそう言って細められた目が、また遠く深くなる。何だか見えない距離が離れていくようで、おもわず手を伸ばしそうになるくらいに。
「……君のお母さんに教えてもらったから」
「うん。僕より優秀な弟子だよね」
僕は真似しても掴みきれなかったから、と言って困ったように笑う顔はそっくりだ。記憶なんてもう褪せて、本当にそうなのかは解らないけど、これと同じ空気は憶えている。
「お母さん、元気?」
五年ほど前に少しだけ関わった自分の事を、今でも憶えているのだろうか。もう暫く目にしていない姿を思い浮かべたらすこしだけ、逢いたいような気がした。
そんなふうに考えていた矢先、記憶から想い起こした彼女は彼の一言で消え去った。
死んじゃったんだ。
言葉の悲愴さを裏切って、その声があまりにも平淡なものだったから、随分前に死んでしまったのだろうと思った。
わずかな沈黙のあとに、そっか、いつ、と同じくらい平淡な声で訊ねた。 それでも内心は自分で思うよりもショックを受けていて、妙な喪失感に蝕まれていくようだ。ほんの五年くらい、少しだけ関わっただけなのに。
「うん、一ヶ月前くらい、かな。地区予選の直後だったから」
随分前なのだと、思っていた。それなのに一ヶ月前なんて、つい最近じゃないか。何ともないように振舞っていたって、その喪失感はこんなものじゃないだろう。 それなのに、どうして、笑っていられるんだ。
声にはしなかったはずなのに、どうしてか聞こえてしまったその言葉に答えるように、彼は笑った。
「泣いても母さんは喜ばないし、最後にありがとうって言えたから、もう充分なんだ」
強がりでも虚勢でもない。心から笑える彼は、本当に強い人間だ。そしてさっきの遠ざかるような感覚の理由が、なんとなく解った。 かなしみを越えて笑うことのできる彼の強さが、遠いのだ。
きっと苦しくて、きっとつらかった。それを乗り越える途中は、どれだけやりきれなかっただろう。
できるならそのかなしみの瞬間に傍にいたかったと、ぼんやり思った。本当に曖昧に、漠然と。
「鷹山君」
真っ直ぐに視線がぶつかる。それだけで、さっきまでの喪失感が、あの試合中みたいな高揚感に変わるのがわかる。
「今度、母さんに会ってあげてよ。絶対喜ぶからさ」
長野だからちょっと遠いけどね。そう言ってもう一度、困ったように笑った顔は、だけどもう彼女には重ならなかった。 喪ってしまった面影の代わりに、目の前にいる空が確かな存在として自分のなかに根付いていく。
「――――うん、会いに行くよ」
そしてたくさんの感謝を伝えよう。
バスケを教えてくれたこと。何よりもその楽しさを教えてくれたこと。そして。
「ん、ありがとう!」
夏の空みたいに笑う、最高のライバルに出逢わせてくれたことに、最上級のありがとうを。

明らかな消失だ、なのに何故。

2007/07/31
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