人魚の血肉を食らえば不老不死になるという話を信じている人間は存外多い。
そういった、いわゆる都市伝説というものは、根も葉もなければやがて時間をかけて風化していくものだ。
言い換えるならば、古から息づいている話は真実である場合がほとんどなのである。今回の人魚云々も後者の類。
不老不死を求めた阿呆共から狩り尽くされた人魚は、もう既に生き残りもすくない。
何百年が経って周りの景色も世界も目まぐるしく移ろっていくのに、自分だけが変わらないつまらなさなどまるで識らないからそんなものを欲しがるのだ。
かつてそんな平坦な日々に降ってわいたように現れた妙な少女もこの世界に背を向けて、今では彼女の孫息子なんぞと出遭ってしまうほどの歳月が過ぎた。
レイコの孫である夏目もまた違った意味で変わったヒトで、人間と妖のあいだにある危うい境界線を綱渡りしている馬鹿な子供だ。
けれど気のとおくなるようなまっ平らの時間を過ごしてきた斑にとって、その愚かさがおもしろい。いつか夏目が死んでその手にある友人帳が自分のものになるまで、だから彼は夏目につきあってみることにしている。
そうして友人帳の紙幅は日につれて減っていく。ともすればものすごくちかい未来、なんの力もない白紙の束になってしまうかもしれない。
べつに本当にそうなってしまってもまったく構わない。なぜなら斑はあらゆる妖を従わせる力を心から欲しているわけではないので。
それなのになぜか後ろ髪引かれるような感覚だけが、まるで水が染むようにゆっくりと斑を侵食していくのだ。
『そんなことしたら先生、一生友人帳を手に入れられなくなっちゃうぞ』
容易くそんな台詞を吐いて、本当の冗談として笑ってみせる貧弱な目の前の少年を喰い殺してやろうかと、だから斑はちょっと本気で思ったのだった。
「先生、おれはわがままなんだろうか」
悠々と泳ぐうつくしい人魚が姿を消してしまった池を眺めながら夏目が呟くのを、同じようにして斑は黙って聞いていた。
水面に落ち葉が漂う。それ以外に波紋はひとつも見当たらない。
「何の力ももっていないくせに、叶うわけがないのに、いつまでもこのままでいたいと、そう思ってしまうんだ」
色素のうすい睫毛で視界を閉じた夏目は、斑がどんな心地でその言葉を聞いているのか、きっと死んでも解らない。
たとえ彼が目を開いていたとしても依代の器に表情はなく、なにより本人に伝えるつもりがすこしもないからだ。
(どうせ先に逝ってしまうくせに。時間を喰うごとに都合よく美化されていく「思い出」なんて陳腐なものだけを遺して、逝ってしまうくせに)
恨み言のようなその言葉を声に出せば呪詛にも似た響きが絡むと、なぜなら斑は識っていたので。
ヒトの一生は短い。おそろしくながい星霜を生き永らえている妖にとって、それはほんの刹那にひとしい。けれど生きているヒトはあたたかい。
暗闇が光に群がるように、つめたさに冷えきった身体は温度を求めて寄り添う。そんなようなものを、随分とながく忘れていられたのだ、夏目と出遭うまでは。
(私も同じ事を願っているのだと識ったなら、お前は笑うか)
「だから言ったではないか、人魚を食えばよかったのだと」
しかしまったく皮肉なことに、夏目がそんな非道なことができるわけがないということも、ふたりが一緒にいる時間のなかで斑は理解してしまっていた。
だから見上げればきっと、まるで予想どおりの困った顔で、夏目は斑の願いを拒絶するのだ。
「そんなことはできないよ、先生」
ああ、そうだ、結局こうして寄り添ってはくれない。これだから、人間なんてはかないものは嫌いなのだ。