授業が終わって帰ってきた寮の部屋に入るや否やベッドに倒れ込む燐を見て、雪男は呆れた声を飛ばした。
「兄さん」
「あー?」
呼び掛けに応えてベッドに寝そべりながら視線を寄越した燐のあまりにも無防備な様子にかすかな嗜虐心が芽生える。
「制服脱がないと皺になるよ」
「んー……」
不向きな机上学習ばかりを頭に詰め込んでオーバーヒート気味なのか、燐は気だるげに返事をした。それからおもむろに立ち上がり、制服から部屋着へと着替える。普段は身体に巻きつけて隠している尻尾がようやく自由を得て揺れた。
「それ、最近ずっとつけてるよね」
そう言って雪男が指し示したのは、「前髪が邪魔だ」と唸っていた燐へ勝呂が“お礼”にあげたヘアクリップだった。
「ん? ああ、これな。すっげー便利」
子どものように笑う燐に他意などまるでないとわかってはいても、なんだか面白くない気分になる自分を心のなかで雪男は嘲笑った。
「そんなもので良いなら僕が買ってあげたのに」
そんなもの、に僅かなアクセントを置いて呟く。表情はできるだけ普段どおりのまま。
「『そんなもの』も買えなくて悪かったな!」
雪男の言葉を勘違いして、月二千円で生活を遣り繰りしていることへの嫌味と受け取った燐の純粋さに、呆れながらも心底安堵する。
この感情は覚られてはならない。こんなにも、目も当てられないくらい歪んだ醜い妄執は。
「だってそれ勝呂くんのじゃないか。なくなったら困るんじゃないの」
本心とはまったくちがうことをぺらぺらと並べ立てる口に我ながら感心してしまう。感情を隠すことに慣れきったのに、落胆するどころか歓喜すら覚える。気づかれたら最後、怯え戸惑う燐の姿が容易に想像できるからだ。
「あいついっぱい持ってるって言ってたから大丈夫だって」
何も知らずに笑う燐の口から零れ出た気安い呼び名に、苛立ちは更に増していく。誰とでもすぐに打ち解けてしまうというその長所が、今は憎くてたまらなかった。
授業中、塾のなか、二人きりの部屋でさえ、故意ではないにしろ勝呂からの貰い物を見せつけられるたび、狂いそうになるほどの嫉妬が身体中を吹き荒れる。いっそ所有印めいてすら見えるそれを幾度壊そうと考えたか知れない。
炎こそ受け継いではいないが、自分が確かにサタンの落胤であると自覚するのはこういう時だ。破壊衝動にも似た独占欲。本当はその身体に他の誰かの指ひとつふれることさえ赦せない。
燐が継いだものが炎なら、雪男が授かったものは精神だ。いちど望んだら手に入れたくてたまらない。
いつからこんなことを考えるようになったのかはわからない。しかし幼い頃からいつだって疑問だった。かつて一個体であった自分たちがまたひとつになることが、一体どうしていけないのだろうか。そう思えば最初から、すこしずつ歪み続けていたのかもしれない。
「まあ……とにかく落とさないように気をつけて。部屋のなかに落ちてたら僕もうっかり踏んじゃうかもしれないし」
表向き、すこし抜けたところのある兄をたしなめるセリフを言いながら、毒を吐き出す。
「うわ、そん時はお前弁償だからな!」
予想どおりの言葉を引き出せたことに内心舌なめずりをしながら、仕方なさそうに溜め息をつけば、仕掛けは完璧だった。
「しょうがないなあ」
お望みどおり、そう遠くない未来に弁償することになるだろう。それはただ、燐にふれるすべてを自分のものにするために。
弟がそんなことを考えているなんて、この可哀想な兄が知ることはきっとないだろうと同情しながらも、高揚していく気分を止める術を雪男は持たない。
歪なかたちをした感情は、もう修正不可能なまでに変形しきっているのだ。