教育/サービス/東京事変 
 応接室とは名ばかりの、ただひとりのために用意されたその部屋で、近頃珍しい光景が繰り広げられていた。 部屋の主にして並盛町影の支配者、雲雀恭弥と、最も関わりが無いはずの沢田綱吉の共演である。

「いい加減にしないと咬み殺すよ」
「ひいいいい! それだけは!」
「じゃあ言ってみな」
 言葉に詰まった後、じっくり躊躇して、綱吉は錆びれたロボットのような口をようやく開いた。
「き、きょ、きょっ」
「……バカにしてるの」
「そそそんな滅相もありませんんんお許しをおおう!」
 時代劇でいうなれば、さながらお代官様と小姓の遣り取りを、温かく見守る観客は風紀委員の皆さま。これ以上進まない話を、かれこれ三日も見続けているのだ。 雲雀の下に就いているというだけでも、根っからの草食動物体質である綱吉には頭の下がるような想いを抱かせるのに、もう何だかわけもわからないまま思わず敬礼してしまう。
 開演は三日前、雲雀と綱吉がうっかり恋人なんてものになってしまった一ヵ月後の事である。







 ある日のうららかな午後。生徒たちが気合入れてお弁当やら購買のパンやらのお昼ご飯を食している頃校内に、不幸の手紙にも似た恐怖の放送が響き渡った。
「2年A組沢田綱吉、至急応接室に」
 その時の周りの反応といえば、「とうとう来たあ……!」というものだった。呼ばれた本人はそれどころではなく、まさに思考停止状態、ブラックアウト寸前である。

 すこし前から、校内どころか町内すらも統治している風紀委員長様が、ついにダメツナに目をつけた! という噂はあった。綱吉が遅刻する間際の朝の校門やすれ違う廊下で絡まれている姿を目撃した輩が、そう吹きまわっていた。 しかしその割りに傷のひとつもない綱吉を見ては首をかしげ、心の底で密かに彼が時折見せる変貌の姿を思い浮かべて、無理矢理に納得するのであった。

「十代目が行く必要なんてありません!」
「でもヒバリさんだしなあ」
「あんなとこ行ったら何されるかわかんないぜー」
 引き止める獄寺と山本の言葉に頷きながらものそのそ立ち上がった綱吉は、「そうなんだけどさー」と呟きながら制服の埃を払う真似をして「最近やさしいよ、うん」と、とんでもないことを零した。 ふたりがそれによる様々の衝撃に頭を真っ白にさせているあいだに、そそくさと屋上から駆け下りた綱吉は内心、だけれどとても億劫だった。いくら優しくなったとはいえ、易しいひとではないのだ、ちっとも。



 階段を下りただけで上がる息と、それだけではなく忙しない心臓の呼吸を整えようと扉の前に立ち止まる。扉一枚で隔てられた向こう側は、だけどベルリンの壁よりも厚くて高い、誰ひとりも未踏の、あるいは聖域のような空間だった。
 未知の領域というものは、どうしたってこわい。以前一度だけ訪れた事はあっても、それは無知のなせる業。記憶にしっかり刻み込まれて忘れない、そこにおわすお方は恐怖政治の絶対君主、雲雀恭弥その人なのである。そう思うと、心は極寒のシベリアにそのままの態で放り出されたように震える。
 これは、やっぱり逃げるべきだ。散々迷いあぐねた挙句、綱吉が行き着いたのは結局そこだった。だってこわいものはこわい。人の話はきちんと聞きやがれ、との家庭教師の言葉を反芻しながら、じきに終わる昼休みの真ん中に置いて来た友達の元へ戻ろうと踵を返した、ちょうどその時だった。
「何してるの」
 ベルリンの壁は意外にもあっさりと崩れ去り、東ドイツならぬ応接室は今、綱吉のために開け放たれている。目の前には、軍服よりもストイックな黒の制服を羽織って、銃なんかよりもよっぽど恐ろしい威力を持った得物と力を携えている人が居る。
「入りなよ」
「うえっ、あ、はい……」
 腕組みをして不機嫌を隠そうともしない王者の風格に、生態ピラミッドで言えばはるか下層に位置する、抵抗力なんて皆無の綱吉はすごすごと従うほかなかった。踏み入った二度目の応接室は、学校のどこよりも清潔できちんとした場所に思える。
(うう、使ってる人の性格が表れるよなあ……)
 自分の性格と自室を照らし合わせて、やっぱりそうなんだなあと、生来の面倒くさがりはちょっぴりやるせない気持ちになってみたりする。
「沢田」
「はいい!」
 なかば現実逃避気味だったのは否めない。声が裏返ってしまっても、しかしトンファーが飛んでくる事はなかった。うん、やっぱり優しくなったんだよ雲雀さんは。彼だって人の子だもの。
 しかして呼びかけに答えて数十秒経っても、続く言葉は聞こえなかった。この人に限ってまさか、名前を呼んでみただけなんて、いやいやそんなことは。「……ええと、なんでしょう」
「うん」
「はい」
「沢田、僕と付き合いな」
「はい……え? えええええ?」
 翻る黒を目の端で捉えながら、再びリフレインする家庭教師の声。先生、あなたはきっといつも正しい。なぜか抱きしめられている状況を他人事のように感じながら、だけど息もつかない雲雀の心音に、綱吉はなんだかいとおしくなってしまったのだった。




 そうして始まったふたりの関係は、しかし案外おだやかなものだった。一ヶ月前と変わったのは、放課後綱吉が応接室に来て雲雀とお茶をするのが習慣になったくらいである。 まるで熟年夫婦のようではあるが、ストイックではなくともプラトニックな先輩に、綱吉はこっそり安堵しているのだ。しかも雲雀が手ずから淹れる紅茶は、意外にもものすごくおいしい。
「ヒバリさんが淹れたのって、なんでこんなおいしんだろ」
「ねえ」
「なんですか?」
 根付いた恐怖心の消えない綱吉は相変わらず敬語のままである。というより、雲雀相手に敬語以外を使うという思考がそもそも存在しないのだ。色々と行き過ぎている気はしても、雲雀恭弥という人は綱吉とまるで反対の、ある意味では憧憬にも値する人物であったので。
「いつまでそうやって呼ぶつもり」
「へ? そうやって、というのは」
「苗字じゃなくて、名前で呼びなよ」
 それが開演の合図だった。







「大体どうしていきなり名前なんですか!」
 三日経ってもとうとう名前を呼ぶことができなかった綱吉は、いわゆる逆ギレなんてものを、恐れ多くも天下の風紀委員長様にしてしまうほど疲れきっていた。 多くの死線と家庭教師の試練を乗り越えてきたボンゴレ十代目は、日に添えて強かに成長中である。
「なに、不満なの」
「や、そうじゃない、です、けど……」
 苛立った様子で眉根を寄せた雲雀に、冷静さを取り戻した綱吉の頭のなかと顔の色は真っ白になった。血の気がひく音というのを、たぶん彼は普通の人よりも格段に多く聞いている。
 咄嗟に身構えても、目を瞑っても、なんの衝撃もないのに違和感を覚える自分は、きっといや絶対にマゾではないはずだ……と考えながら恐る恐る開けた目の先に映る雲雀は、何やら考え事をしているような態だった。
 思っていたよりも多弁だった雲雀は、それでもやっぱり無口なほうだ。無駄な言葉がすくない。それだけでなくその存在自体だって、無駄なものなんてひとつもない。 だから本当は、このストア学派の一派のような人が愛情の類で誰かを想うなんてことを、しかもこんな、彼曰くの草食動物に向けてだなんて、今でもまったく信じられないことなのである。
「有象無象に呼ばれるのと一緒なんてつまらないじゃないか」
 まっすぐ見つめてくる雲雀の瞳は真っ黒くて、つめたい新月の夜のように綱吉の背筋をふるわせた。だけどそれは決して身の凍るようなものではなく、身体の奥が疼くようなくすぐったさで。
「そう思うだろ、綱吉」
 初めてだった。親しい人にだってほとんど呼ばれたことのない名前を、あんまり真摯に呼ぶものだから、照れくさいのも吹っ飛んで心がじんわり熱をもつ。ああ、これなら。同じように、感じてくれるなら。
「そうですね、恭弥さん」


 込み上げる感情を噛みしめるように笑った綱吉といつの間にかふたりきりの空間を見て、雲雀はどうしよう、と思う。それは目眩にも似た誘惑だ。噛みついた唇はあまい。
 骨の砕ける感触よりも血液よりも興奮するものを彼に覚えてしまったら、僕はどうなってしまうのだろ。

さあ「骨抜きに」

2008/11/19
ひばりさんはつんでれだといい