教育/林檎の唄/東京事変
 部屋は夜の底のようにとても暗くつめたい、がらんどうの空間だった。時代を越え、代わる代わる世界の裏側の頂点に君臨し続ける部屋の主たちを見守り続けてきた家具も、 今だけはまったく静まり返っている。そのなかにひとつあるか細い息遣いだけが、当代の所在を示していた。
「おい」
 真っ暗闇に響く声は、両腕を盾にして机に俯いている、喪服のように真っ黒い格好をしたボスにまっすぐ突き刺さった。のろのろと首を上げ、夜目の利くリボーンを見る綱吉の目玉は、鈍い色をした硝子玉が嵌っているように、水分の一粒も見当たらない。

 血塗れた玉座に腰を落ち着けた数年の間に、まだ見た目にも精神的にも幼かったジャッポーネの一般人は、今や初代の再来と謳われるほど立派なボスになっていた。 家族にはあふれんばかりの慈愛を、敵には非情の限りを尽くす。だけどその裏に、どうしても消えない甘さをひた隠しにしているのを、家庭教師の少年だけは知っていた。

「は、情け無い面だな」
「うるさい」
「よかったじゃねーか。大した怪我も無い。邪魔者も消えた。何の不満がある?」
 色素の薄い目が見開かれ、見る間に深い怒りに燃ゆるのをリボーンが眺めていると、立ち上がった綱吉は荒々しく家庭教師のシャツをタイごと引っ掴んだ。間にある机の上に帽子が落ちる。
「お前が、それを言うの、俺をこんなところに引っ張ってきた、俺をこんな風にしたお前が、」
 唇を戦慄かせて眉根を寄せるその顔は、切実にリボーンへの憎しみを訴えている。もう何年、笑顔を見ていないのか少年は思い出せなくなっていた。それどころかいつから、教え子が彼を憎むようになったのかすら。
「それが俺の仕事だからな」
「大した怪我がない? 邪魔者が消えた? そりゃそうだ、みんな俺を庇った。俺がみんな殺した」
「それが部下の、お前の仕事だ」

 惨い抗争だった。格下といえども、それなりの勢力を持つ敵対ファミリーとの長い戦いは、両者から多くの犠牲を強いた。そして綱吉は初めて目の前で、身代わりに撃たれる部下を見たのだった。
 それはもしかすれば、一種の錯乱だったのかもしれない。直後の綱吉は取り憑かれたように何の迷いもなく、敵の命を奪っていった。今までその裁きの手を目の当たりにしてきた幹部でさえ目を瞠るほど。 何もかも終わった後の途方に暮れたような、まるで魂の抜け殻のような姿を、リボーンは焼きつけて忘れまいと決めた。それこそが科せられた、償いきれない罪なのだ。

「こんなのは仕事なんかじゃない、ただの人殺しだ!」
「甘えんなよ。そういうモンだって知ってただろうが」
 その瞬間、胸倉を掴んでいた手が離れた。嗚咽のような引き攣れた息を繰り返す綱吉の目からは、それでも涙は流れない。 泣かなくなったのではなく、泣けなくなったのだ。挫けそうになるたび、跪きそうになるたびに叱咤して立ち上がらせた教え子は、前に進むために泣くことをやめてしまった。 代わりに血の滲むような想いで、リボーンを憎むしかできなくなったのだ。傷む心のあまり塞いでしまいそうな口をそれでもこじ開けて、ただひとりにしかその傷を訴えられなくなって。


「お前にわかるもんか、お前に、こんな、酷い罪悪感なんて」
「ああ、わかんねえな。死神の俺には」
 綱吉が息を呑むほどに不敵に歪んだ唇のうえ、被り直したボルサリーノに隠れて見えない眼の奥が、途方も無いかなしみに染まるのを、だけど綱吉が知る術はない。
「ツナ、俺を憎め。耐え切れなくなったら、殺せ」
「リボーン、おまえのそいういうとこが、俺は憎いんだ」
 震える声を背に受けて部屋を去るリボーンも、見送る綱吉が彼を憎む本当の理由を識ることはきっとない。

 ギリギリのラインで保たれている綱吉の精神は、もう、これまで自分が手にかけ、盾にしてきた命の重さに耐え切れないのだ。 その綱吉を支える唯一のリボーンへの憎しみを奪ったら、今はまだ危うい均衡を維持している、昔からすこしも違わずに脆い心が積み木のように崩れ落ちるのを、彼はとてもよく理解していた。 だからリボーンは彼のなかにある感情も、それによる綱吉からの憎悪の甘受も、絶対に悟らせない。
 それこそが死神と畏れられ蔑まれ続けてきた続けてきた少年にとってのこれ以上無い愛のかたちだということを、だからこそ彼はずっと、願わくは愛しい教え子の手によって命が絶えるその日まで、感情を殺して黙っているのだ。

私が憧れているのは人間なのです

2008/11/09