きっと最初で最後のごくつな話 
お願いがあるんです。そう頼まれているこちらのほうが頭を下げたくなるほどの、端整な顔を更に際立たせる哀愁に満ちたとんでもなく申し訳なさそうな獄寺の顔を、しばらくのあいだ忘れられないだろうと思った。





寝酒のグラッパを一杯ひっかけようとしていた時だった。ちょうど明日の予定を告げに来た獄寺を捕まえてダメ元で勧めたところ、めったになく頷いて飲み進める獄寺をすこしだけ意外に思っていた綱吉は、 事務仕事のあいだはずっとその高い鼻にひっかかっている眼鏡の奥の灰の目が、アルコールにどんどん潤んでいくのを眺めていた。 それはもうほとんどヤケ酒と言ってもいい飲みっぷりに、酒にはあまり頼らない彼をそうさせるまでの原因を考えるのに夢中になってしまって、勧めた側であったもののあまり酒を呷る気分になれずにいた。
執務室に入ってきた時点では普通だったのだ、おそらくは。あまり気をつけていなかったというのが事実ではあるが、異変があるようには見えなかった。 ただちょっと慌てていた様子だったのは、いつもより遅い時間に訪れたからで……「ん? そういえば今日は来るの遅かったねえ」
子どものようにすこし間延びした声で訊ねれば、何かに挑むように酒を流し込んでいた獄寺は我に返ったようにはっとして、姿勢を正せた。
「すみません、懐かしいものを見つけてしまって」
読んでいたら時間が。そう言って居心地悪そうに視線を向けた先には、二人のあいだのローテーブルの隅、獄寺愛用の手帳の下にすこしくたびれた表紙の文庫本が二冊あった。どちらも角はまるく、ページの白は褪せて黄色味をおびている。ギリギリ読めるすりきれた題名を見て、綱吉はかるく驚いた。
意外にもそれは獄寺がいつも読んでいる洋書や小難しい専門書ではなく、日本の純文学だった。しかも片方はたしか、前期三部作のまんなかの巻だったはずだ。 そういう分野に疎いはずの綱吉がそれを知っているのは、今ではフリーに戻った元家庭教師のヒットマンが学ばせたのはむしろ西洋古典が主だったので彼ではなく、確実に高校の現代文教師の影響だ。





綱吉や獄寺がまだ高校生であった頃、成績というカテゴリで判別するのなら、綱吉に至ってはその枠に限らず高校生が重要視されるたいていの部分に於いて、獄寺は素行の悪さとは真逆に、前者は落ちこぼれ、後者は優等生であった。
しかしいつだったかのあるテストの返却日、有無を言わせないはずの獄寺の解答について、その現代文教師はのたまった。
「君の解答には心がないね」
いつも飄々としていて掴みどころのないのは知っていたが、まさか不良を絵に描いたうえに飾り立てたような獄寺に躊躇なくそんなおそろしいことを言えるほどとは、綱吉だけでなく誰も思っていなかっただろう。 案の定獄寺は、何言ってんだてめえ果たすぞ、の姿勢で噛みついたが、綱吉をはじめとした青褪めている周りのほうが滑稽に見えるほど、まったく気にしていない様子だった。
「古典にしろ現代文にしろ、国語のテストにはほとんど文章のなかに答えがある。それを的確に見つけられた場合の解答が君のような模範解答だ」
だけどねえ、国語というのは同時に、行間を読むことだって大切なんだよ。君はもうすこし、その行間を視野に入れた答えを見つけたっていいんだ。
諭すようにまるでいつくしむ声で呟いた彼は、本当に国語というものがすきなひとだった。とりわけ彼が傾倒していたのは夏目漱石という文豪で、授業の合間によく漱石にまつわる逸話や小話をしていた。 それがあまりにもな頻度だったものだから、一種の刷り込みにちかく綱吉も『吾輩は猫である』なんかを数行かじってみたが、すぐに断念した。現代文学よりももっとはるかにとっつきにくかったのだ。 後に西洋文学を原文で学ぶにあたってもういちど同じことを思うとは知らずに。
そんなことはとにかく、そのあたりからだったように思う。威嚇にも怯まない彼に楯突くことは無駄だと悟ったのか、それとも何か感じるところがあったのかはわからないが、獄寺の彼に対する態度は他の教師陣への態度に比べれば随分とやわらかくなり、 何かと突っかかっていた山本に対してもある程度の協調と妥協を示すようになった。その頃の綱吉はただただ天変地異に怯えていたが、今思えば要するに大人になったのだと思う。 そうしてそれと同時に、綱吉へのあからさまで行き過ぎた感の否めない忠誠の言動は影を潜め、それはそっと背中を支えてくれるような、それでいてとても心強い補佐へと変わった。 今とまったく変わらない澄んだ灰の目に混じる諦観に似た渇望の色は、なんだか知らない男の人のようで、綱吉はそれがたまらなくこわかった。





一生に一度の、という冠がつくのでは? と思ったのもあながち間違いではないかもしれない。
お願いがあるんです。そう頼まれているこちらのほうが頭を下げたくなるほどの、端整な顔を更に際立たせる哀愁に満ちたとんでもなく申し訳なさそうな獄寺の顔を、しばらくのあいだ忘れられないだろうと思った。
手の付けられないようなとんでもないアクシデントやらトラブルやらを、守護名どおり嵐のように巻き起こすのが得意中の得意だった彼は、けれども綱吉に対する欲求や要求はまるで口に出さない人間だったから、 いったいどんなすごいお願いなんだろう、もしかしたら俺殺されちゃうかもしんない、と絶対にありえない『お願い』を考えつくくらいにそれは、たいへんめずらしいことだった。

ああだけど、「一緒に死んでください」ならありえるかも。思いついた綱吉は、つまり獄寺の言動に滲む自分への好意が、憧憬や敬愛からくるような純粋なだけの、しかもいい加減なそれでないと識っていた。 そのことに気がついた時、他人の感情の機微に敏くならずにはいられなかった環境を俺はひどく呪った。だってどんなに真っ直ぐに想いを向けられたって受け取れやしないのだ。
この両の手が握るのをゆるされているのは炎の灯るグローブ、つめたく黒光る鉄の塊、守るべき命と刈るべき命の行く末。背負うべきは何百年ものあいだ血を浴び続けてきた業。 そんな血生臭いものだけを後生大事とばかりに抱えて生きていかなければならない俺は、きっと受け取ったところですぐにだめにしてしまう。 本当は誰よりひたむきな心を持っている彼を、そんなかたちで汚してしまうなんていうのはまるで悪魔にでも成り下がるような心地だ。 未だ傷つけることに慣れない弱い甘さを優しさだと言い聞かせ、だから綱吉は獄寺の想いに気づかないふりをしつづけているのだ。

「叶えるよ、君の頼みだから。可能なかぎりは」
すこしだけ苦いものが混じる微笑みをどう捉えたのかは解らないが、獄寺はますます眉を下げながらこいねがうように、思いがけない望みを告げた。
「『月がきれいですね』と、言ってくれませんか」
綱吉は思わず防弾の複層ガラスが嵌められた大きな出窓の外へと視線を向けた。外はまったくの真っ黒。新月の夜だ。シャンデリアが照らす部屋に戻せば、目玉はちかちかと星を瞬かせる。 再び目が合った獄寺は困ったように笑って、それが泣きそうに見えるのは錯覚だろうか。だけどそんなのはどちらでもよく、そのさみしい笑顔が綱吉に「とにかく言ってやらなければ」と思わせたのだけが確かだった。
「本当にそれだけでいいの?」
「はい」
拍子抜けしたまま望む言葉を舌に乗せようとした瞬間、綱吉は思い出した。漱石と月の関連性を。




「アイ・ラブ・ユーを訳しなさい、と言われたら、君たちは何と訳しますか」
いつものように教科書のつまらない評論を解読しているあいだの雑談だった。 クラスのお調子者がその質問に「愛してるぜベイビー、だべ?」なんて茶化して答えれば、彼は「おお優秀優秀、だいたい正解」と笑った。
「でも英語教師だった時に漱石は、その訳は間違いだと言ったんだ」
クラスの空気は「また漱石……」という呆れたような、それでも隠し切れない好奇心が見え隠れする微妙なものになった。 彼の雑談は興味がない者にはどうでもいい石ころが多かったが、時々はっとするような原石もある。だからすくなくとも綱吉は本来の授業内容より、その宝箱の中身にいつも耳を傾けていた。
「当時はまだ明治で、『愛してる』なんて直接的な言葉は無粋だったんだろうね。それに彼は、決して好きになってはならないひとを想う人間を書くのがべらぼうに巧いんだ。 特に前期三部作中の『それから』、あと『こゝろ』なんかねえ、あんなのを書ける作家には、もう出逢えないだろうなあ」
悔しげに響いた声と同時に、授業終了の鐘が鳴った。気が済むまで話させておけば、彼の雑談はどこまでもどこまでも脱線していく。
「つーかせんせえ、結局『アイ・ラブ・ユー』は何て訳せばいいんすか」
質問に答えた生徒がさっそく教室を去ろうとしている彼に慌てて訊ねた。振り返った彼は相変わらず飄々としていて、けれど表情はとんでもなくおだやかな微笑みだった。




「『月がきれいですね』」
追想が連れてきた懐かしさと一緒に言えば、自然と顔は緩んだ。獄寺は震える声で「ありがとうございます」と呟いて、目を伏せた。
手に持っているグラス一杯に対して一滴ぶんくらいに薄く流れてはいても、日本のごく平凡な家庭で純粋培養された綱吉よりイタリアの血が濃い獄寺のほうが、もしかしたらよっぽど日本人らしいのかもしれなかった。 彼はいつの間にか行間ばかりを見据えて生きるようになっていたのだ。あの現代文教師の言葉を、馬鹿みたいに鵜呑みにして。

君が本物の馬鹿だったらよかったのになあ。
誰ひとり、自分すらの手も届かない心の底に沈めていたはずの僻みめいたそんな気持ちが喉元までせり上がってきたのを、奥歯を噛み締めてやりすごす。 もしも彼が体裁もしがらみも気にかけない愚かさで真っ向から向かってきてくれたらなんて、それこそ馬鹿らしいことを考えながら。
しかし現実はまったく易しくなんかなくて、彼はボンゴレ随一のブレーンとして名高く、何より生粋のコーサ・ノストラであった。むず痒くなるくらいの真摯さで綱吉を求めるくせ、それ以上にただしくボンゴレのボスであることを望んでいるのだ。
なんて不器用で手強いやつなんだろう。彼が俺を好きでいる前提には、古からつづくボンゴレの伝統と格式を重んじる優秀なボスであることが絶対の条件なのだ。だから俺たちは絶対に互いの想いを手渡すことも、況してや周りに覚られることもゆるされない。なぜならその瞬間に二人のあいだにある前提が崩れ去るからだ。優秀なボスは男を囲ったりなんかしない。
まったく、こんなに不自由な両想いなんて他のどこにあるんだろうか。悪循環じみた堂々巡りの恋を想うと、俺はいつでも泣きだしたくなってしまう。まるで悲劇だ。ふれあえる距離にいるのに、すべてはないものねだりなのだ。なんて馬鹿らしい、最低の脚本。人の人生の顛末を書き綴る存在がいるのなら、ユーモアの欠片さえ持っていないにちがいない。そいつが神だろうと何だろうと。
だけどいちばん最低なのは宿命でもボンゴレの枷でも神でもない、俺自身だ。彼を傷つけるのを恐れているのではなく、そうすることで一生立ち上がれなくなりそうな脆い自分自身から目を逸らしたい俺の弱さなのだ。

ありがとうございます、繰り返しながら、嗚咽もなく涙を床に落としている獄寺の背をあやすように撫ぜ、たったそれだけで世界一やさしくなれそうにせつなく満たされてしまう自分を綱吉は笑った。
それでもやっぱり、俺はしあわせなんじゃないかなあ。
『こゝろ』で"先生"が諭すように、(特にきっと、俺たちのあいだにあるような)愛や恋だのというものが神聖だけれどもおそろしい罪悪なのだとしても、いつかの未来に『それから』の如く愛していながら他人に譲る時が来ても、なぜならベクトルは互いへ向きあっているのだ。
「ねえ獄寺くん、君といると、月がきれいだなあ」
声に出して、失敗したと思った。喉が震えてしまっている。もともと涙腺が脆いのに、そんな泣き方をされたらちょっとたまらない。ごまかすように引き寄せて、ぎゅうと抱きしめてみた。 縋るように抱き返される腕を背中に感じて、どうしようもなく愛おしい。

たとえ直接的な言葉で愛を語れなくても、隙間のなかでしか息が出来ない恋でも、心のどこか深いところで繋がっていると、泣きながら幼い兄弟のように抱きあっている俺たちは確かに識っている。
「俺いま、きっと世界一、しあわせです」
「うん、俺も、こわいくらいしあわせだよ」
新月の、星も見えない真っ黒の夜。それでもだから俺たちは、月を乞うて泣きつづけるのだ。

cry for the moon

2008/07/18
cry for the moon = ないものねだり
わたしのなかのごくつなをぜんぶ詰め込みました。
漱石すきな方すみません。