教育/東京事変/現実を嗤う 
 目が醒めたら、顔がやけに冷たかった。ぼやけた視界に目を擦ると、水滴が手の甲に線を引いた。泣いてしまったみたいだ。原因はわかっている。がらんどうの胸を突き刺す痛みが涙腺を刺激した。
 横を向くと上半身だけ空気に晒した身体を起こしている男の整った顔がふっと笑ってオレの左目をゆるく拭う。タバコを咥えていたらたいそう様になるだろうとおもうけれど、世界一のヒットマンである彼は特定できてしまうような匂いというものを持たない。
 手を離した男は衣擦れの音さえ立てずに背を向けた。ライトのかすかなオレンジ色が広くて綺麗な背中を照らし出す。うっすらと浮かび上がる細く赤い線にちょっとだけ気恥ずかしさが頬に集まった。
 いつだって両手に余るほどの愛人を侍らせる生粋のドンファンと名高い彼の背中は、だけどオレが傷をつけるまでなめらかな陶器みたいにきれいなもんだった。その理由を訊ねたことはないけど、赤ん坊になっているあいだにすっかり消えてしまったのだろうと思うことにした。もしかしたら傷をつけるのを唯一許されたのが自分なのかもしれないなんて、自惚れも甚だしくて羞恥で死んでしまいそうだ。
 立ち上がろうとした腕を思わず掴んだ。かるく睨まれるのも厭わずに引き寄せる。
「ねえリボーン」腰にしがみつくなさけない恰好で額をつよく押しつけた。震える喉を叱咤する。「すごくこわい夢を見たんだ」
 呆れたようにため息をつくリボーンは、それでも腕を払わない、やさしい。
「オレは冴えないダメツナのまんまで、適当な大学入って適当に授業受けて適当に過ごしてひとりぼっちで」
 誰も居なかった。どんな時も傍を離れなかった獄寺くんもそれに競ってひっついてきた山本も、むかしよりすこしだけやさしくなった雲雀さんもちっとも変わらない了平さんも、いつも家を騒々しくさせていたランボもイーピンもビアンキも、困るくらいに追いかけてきたハルもふつうに話せるようになった京子ちゃんも、誰もいなかった。
「あれはお前と出遇わなかったオレの人生だ」
 夢から醒めたあとの喪失の痛みは、もしかしたらあったかもしれない平凡な日常に焦がれたからじゃない。今あるたくさんのしあわせが、リボーンに出遇わなければこの手にはひとつも掴めていなかったんだって気づいたからだ。
「本当は、お前に出遇わなければって、何度も想ってたよ」
 本物のボンゴレ十代目になった日。オレのために部下が死んだ日。初めて人を殺した日。苦いかなしみから逃れるように繰り返すのは家庭教師への呪詛のような言葉だった。自分の無力さを棚にあげて、最後まで抵抗したオレを無理矢理ボスに仕立て上げたリボーンを心の底から憎んでいた。
 けれどリボーンに出遇わなかったら、喪う痛みすら知らなかった。たいせつなものを命を懸けてまで守ろうとする強さなんて持てなかった。
 だから「出遇わなければよかった」なんて、そんな月並みな言葉じゃこの後悔は表しきれない。いまこの背に背負っているすべてはリボーンに出遭ったからこそ重い。
「オレは謝らねーぞ」
「うん」
 しがみつく腕にすこしだけ力を込めたらちいさなため息が聞こえた。背中の奥で空気が流れる音がする。心臓がしずかに時を刻んでいる。
 死神と畏れられ、呪われた虹と罵られるいとしくて憎らしいこのひとは、ちゃんと生きてここにいる。オレの隣で生きている。
「謝んないで」
 だっておまえが傍にいるだけで、オレはこんなにも泣いてしまいそう。

I would like to be composed of you

(貴方によって構成されたく存じます)
09/04/04