教育/クロール/東京事変 
 顔を見せるだけで中へと入れてしまうボンゴレ邸の貴賓室。溜まった疲れさえも受け止めてくれそうにやわらかいソファに座って、メイドが用意した紅茶を啜った。用事があったわけではない。単に仕事ひとつを片付け終わったらここへ遊びに来るのが習慣となっていただけ。 かつて八年の月日を過ごした極東の国にあるあのちいさな家庭のように、なぜだかここは居心地が良かった。
 音もなく扉が開いて、暗黒色の瞳と出逢う。橙の帯をしたボルサリーノが影を落としても、その顔の端麗さが損なわれることはない。それなのに闇のなかからそのまま抜け出してきたように、彼は気配を殺すのが上手かった。
 『死神』と呼ばれる男。呪われた虹の子。畏怖、侮蔑、人は様々な想いを込めて彼をそう呼ぶ。何にも知らないくせに。いや、知らないからこそ。
「ツナは」
「ハルと一緒にいるわ」
 ハルは宣言どおりにイタリアへ一緒に渡り、綱吉の仕事の手助けをしている。決して傷つけまいとした綱吉は最後までイタリアへ渡ることを許さなかったが、彼女は折れなかった。結局出来る限り安全なものを選んではいても諜報はいつだって危険と隣り合わせだ。それでも彼女に銃を打たせたくない彼の精一杯の譲歩。
「……そうか。じゃあコレあいつに渡しとけ」
 そう言って投げ渡されたのは、剥き身のデータチップだった。やたらにぞんざいな扱いだが、その中身にはとんでもない内容と膨大な量の情報が詰まっているはずだ。
「Finzione?」
 憶測で、最近になって目立ちはじめていたファミリーの名前を挙げれば、リボーンはかるく肩を竦めた。「詮索はするな」という合図だ。
 フィンツォーネファミリーはハッキングによる情報操作で敵対ファミリーを食い潰すという趣味の悪いやり口が評判されていた。何もかもが0と1の記号に置き換えられている今の時代には厄介な相手。
 それなのにフィンツォーネは数日前、あっけなく潰された。誰の所業かは未だに不明。しかし一週間前にボンゴレの情報機関にちょっかいを出して、有能なエンジニア二人につくらせたセキュリティの一枚に穴を空けたというのを弟から聞き及んでいたビアンキには犯人の察しがついている。強固な壁の一部が剥がれたからといって騒ぎ立てるほどではないが、ボンゴレを食い物にするような虫は片付けるに越したことはない。
「直接渡してあげればいいのに」
「忙しい」
 家庭教師を始めてからフリーに戻るまでの十年間、『死神』の不在は裏の世界にたくさんの不都合を生み出した。その後、帰還したヒットマンの価値は以前にも増し、彼を雇える人間はごく少数に限られた。金を積もうにも相当な額になるし、何より仕事の内容をさらに厳しく振り分けるようになったのだ。だからそんな理由はまったく使えないというのは本人も気づいているはずなのに。
「あなた、恐いんでしょう」
 闇よりも深い漆黒の瞳を見据える。その奥深く、本人さえ計り切れていないものの正体を見極めるように。
 家庭教師を辞めてから、リボーンと綱吉の距離は誰よりも離れた。影よりもちかく寄り添っていたのに、話すどころかふたりが一緒にいるところすら、ここ二年ほど見ていない。
 双眸が向けられるだけで伝わる、拳銃を突きつけられているような重苦しい殺気。こんなにも怒らせたのは出逢ってからこれが初めてだ。 ビアンキにとって愛するひとの嫌がることは絶対にしないのが信条だった。ずっと自分自身に課してきたその誓いを破り捨ててまで言い募るのは、それが結果的にビアンキ自身のためになるから。
「拒絶されるのも許容されるのも、恐くてたまらないって顔してる」
「……馬鹿なこと言ってるとお前でも容赦しねーぞ」
 静かな怒りが滲む声。それが何よりも顕著に彼の恐怖を反映している。まるで威嚇する猫のよう。恐いのだ。「お前なんてもう要らない」と言われてしまうのも、傍に居ることを赦されて自分が弱くなってしまうのも。だから身動きが取れない。ジレンマの嵐に苛まれてもどこにも逃げ道がなくなってしまって。
「プライドに命を賭けられない男は男じゃないわ」
 リボーンが今までに最強であるのは、本来ならば本能の導きで何より大切であるはずの自分の命よりも仕事に対するプライドを重んじるからだ。彼にとってはすべてが完璧でなければ生きている意味すらない。しかし綱吉の存在はそんな彼を弱くする。なぜならリボーンにとって、綱吉は他の何にも替えがたい。
「でもねリボーン、プライドのために愛を捨てるなんて臆病者のすることよ。わかってるでしょう?」自尊心と本音とに雁字搦めになって動けなくなっているリボーンは、いつかその二本の糸が動き出したとき確実に引き裂かれてしまう。そんなのは赦さない。想いあえなくていい。ただ想うことを赦してくれるだけでいい。だから、「行ってあげて。あの子、ずっとあなたを待ってるわ」
 投げ返したチップを受け取った闇色の瞳がかすかに戸惑いで揺れる。ああ、綱吉のせいでリボーンはこんなにも弱くなってしまった。ビアンキができなかったことを、こんなにも容易くやってしまった。
 唇を引き結んで引き返す姿に、瞼を下ろす。扉の閉まる音が聞こえた。これでいい。あの手がもう二度とこの扉を開かなくたっていい。
「ビアンキさん」
 扉の向こうから声が聞こえたが驚きはしない。彼女がいるのはわかっていた。おそらくはリボーンも。中へ入るように促すと、決まり悪そうな顔が覗いた。
「ごめんなさい。最後だけ、聞いちゃいました」
「構わないわ」
 話題自体は別に聞かれて困るような話ではない。ただ背中を押しただけの話だ。
「いいんですか」
「たとえ愛されなくたって、私があの人を愛せればいいのよ」
 ソファの隣に座ったハルが上目遣いに訊ねた言葉へ答えた笑顔は強がっているように見えなかっただろうか。本音を言えばまだ未練は断ち切れていない。
 すこし前までは愛したぶんだけ愛されなければまったく意味がないというのがビアンキのプライドだった。けれどどうしたって超えられないものを識ってしまったら、そんなのはまるでちっぽけなものだった。 どれだけ言葉を重ねてもどれだけ唇を重ねても、声すらも必要ない絆に勝つ術は見つからないのだ。
 誰よりもリボーンを見つめてきたからこそわかる。 憧憬にも狂気にも似た眼差しで見つめる先は、彼が何よりもいとおしんでやまない教え子の姿。
「ハル、ごめんなさいね」
「どうして謝るんですかー! ハルにはもうわけがわかりません」
 混乱して涙目になっているハルへの罪悪感が心によぎる。リボーンの背中を押すことで、ハルの想う人も彼女から奪い取ってしまう。 ぐるぐるに思考が絡まっているはずのちいさな頭を撫でながら、これでは自分を慰めているようだと自嘲する。とんでもなく愚かしい傷の舐めあい。
 しばらくの沈黙のあとで、ハルはソファにきちんと座りなおした。撫でる手を止めて見守る。膝の上に握り締めた手が震えているように見えた。
「ホントはわかってるんです」
 すきとおる水滴が手に撥ねて、彼女のスーツに染み込んでいく。赤や黄色に色付いて見えるほど感情の変化がわかりやすい彼女は、けれどいつだって誰にもわからないように泣く。 かなしい色をかけらも滲ませないように彼女はいつも笑っているのだ。彼女が誰よりも想うやさしいひとが一緒に泣いてしまわないように。
「ツナさんがすきなひとも、リボーンちゃんがすきなひとも、ホントはわかってるんです」
 どうしてだろう、嗚咽のない泣き声は咽び泣くよりも悲痛に響く。自分勝手に大声で泣いてしまうには、自分たちはあまりにも相手を想いすぎている。
「ビアンキさんは強いのに、わたし、ずるい。臆病で自分勝手なんです。わからないふりして、離れるの先延ばしにしてるんです」
 ちいさく肩を震わせる姿がかわいそうでいとおしい。こわいものをこわいと認めるのは、とんでもなく勇気がいることだ。だからハルはとても強い。
「想いに優劣がないなんて嘘です。わたしの気持ちは、勝てない」
 きっぱりと言い切ったハルは涙ながらに微笑んだ。もしもマリアが実在していたのなら、こんな笑顔をしていたにちがいない。
「そうね」
 はっきり嘘とわかる偽りと残酷なまでの真実では、どちらがより傷つくのだろう。わからないけれど今のビアンキは頷くことしかできなかった。だって痛いくらいにわかるから。愚かだってかまわない。そうでなければ恋に溺れることなんてできやしないのだ。
 想いをはかることなんて不可能だけれど、それでも絶対に振り向かせることはできない。たとえビアンキを盾に取られたとしても、その向こうに標的がいればリボーンは躊躇いなく引き金を引くだろう。それがヒットマンとして当然とるべき行動であり、血にも契約にも縛られないままこの世界で生きている人間同士のあいだにある暗黙のルールだ。 けれどそんな常識にも規則にも逆らえないほど、リボーンは綱吉をつよく想っている。命よりも価値のあるという矜持と秤にかけるまでもないくらいに。
 ふれるのも手放すのも恐くなるほどの強い想いは、言葉ではとても言い表せないはずだから。ふたりはいつか恋よりも愛よりも深いところで、半分ずつの心をひとつに結ぶだろう。 その時ちゃんと笑っていられるように、涙は枯らしておかなければ。

ああそうそんなに恐いか

09/06/07
BGM / 誰かの願いが叶うころ
「僕らの地面は乾かない」
それでもいつかはみんなしあわせになればいい