ノックをして返事を待った。そんなことをしなくとも足音で誰が来たのか気づいているだろうことはわかっていても、一応の礼儀だ。声は返らない。 溜め息を吐いて「入るぞ」と言ったと同時にドアを開けると常よりもさらに機嫌が悪そうな顔に出会った。これから告げる言葉にその機嫌がますます降下するのは明らかだ。けれどもう形振り構ってはいられない。
「明日、ミルフィオーレに行く」
 強い断定の言葉。もはや誰にも覆させはしない。散々待った。時は来た。雲雀や相手方のスパイと内密に進めてきた計画の幕開けにようやく漕ぎ着けたのだ。
 明日綱吉はミルフィオーレの総大将に売られた喧嘩を買い取りに行く。そのように好戦的な性格ではないのだが、それでもこれを逃したら、他に手立てはひとつもなくなってしまう。それだけはなんとしても避けたい。たとえその結末がバッドエンドだとわかっていても。
 綱吉の宣言を聞いたXANXASは、あいかわらず唇すら動かさない。代わりに紅い双眸を一層鮮やかに、睨み据えただけだった。そのなかにとんでもなく純粋な殺意を認めて身震いしてしまう。恐れているのではなく、鳥肌の立つほどうつくしいからだ。さらに嬉しいことに、それはいつだって綱吉だけに向けられるのだ。
 彼が10年前に呑み込んでから腹の底にうずくまる憤怒は、獰猛な牙を隠して獲物をねらう獅子。ひとたび立ち上がったならかならず相手の喉笛を噛みちぎる。彼の憤怒の牙は日ごと月ごと研ぎ澄まされて、あの頃よりももっとずっと鋭利で濁りがない。
 確かであったはずの足元が崩れ落ちた瞬間に、こいつの矜持はいちど粉々になってしまったのだろう。けれど立ち上がった直後、それよりもずっと高く強固に積み上げなおしたら、彼のプライドは周りのだれひとりも近づけない塔のようなものになってしまった。
 それでも綱吉には、XANXASが猜疑と憎しみで満たされたその部屋で誰かを待っているように思えてならない。だからこそ彼の部下たちは、垂らされた髪も手足を掛けるような隙間さえもないその塔を命懸けでよじ登ろうとしているのに。気づいていながらも真上から石を落としてしまうなんて、とんだラプンツェルもいたものだ。
 あの紅い瞳の強さに囚われたのは綱吉だって一緒だった。だから塔の中へと入りたくてこんなにもじたばたしている。しかも手渡したくて背負っているのが、彼らのような憧憬や敬愛じゃないぶんよっぽど質が悪いかもしれない。
 この気持ちは哀れみでも慈悲でもない。与えたらおなじぶんだけ返してほしい我が儘な欲求が潜んでいる。どうしてそんな気持ちへと育ってしまったのか綱吉でも疑問だけれど、気づいたときには根っこが心臓まで絡め取ってしまっていて、今さら摘んでしまうことはできない。
 立ち去ろうとした手を捉われる。跳ね上がる心臓に本当の本当はこの手を待っていたことを知って、自分の浅はかさに吐き気がした。
「XANXAS」
 名前を呼べば射抜く双眸。強い憎しみが滲んだ殺気が肌を刺した。こいつが血の契約に拒まれてもなお手に入れたい玉座に座って嫌だ嫌だと喚いているオレを、殺したいほど憎んでいるにちがいない。相反するベクトルのあいだでオレたちはいつでも睨みあっている。
 手首を掴む手にさらに力がこもって骨が軋んだ。射殺さんとするような瞳の紅が深く深く色を増す。
「明日からお前がボンゴレの王だ」
 逸らせない瞳を負けじと睨み返す。折れてしまえば決して立ち上がれない。オレはとても弱い人間だから、この瞬間に寄り掛かったらもう歩き出せない。
「だってそれ以外に、オレはお前になにができるの」
 愛を享受するのも離れてしまうのも嫌だなんて言うのなら、いったいオレはお前になにをあげればいいの。
 一瞬見開かれた眼が驚きを物語っている。驚くことなんかなにもない。お互いに見ぬふりをしていただけで、わかっていたじゃないか。憎しみの裏にあるこの感情の名前をお互い知っていたはずだ。
「オレが殺すまで死ぬな。他の誰にも殺させねえ」
 それはどんな愛の言葉も霞んでしまうくらいの、心を焦がすような宣誓だった。
 だけど応えられるわけなんてない。嘘をついてしまうのなんて容易いけれど、きっと後悔してしまう。だから頷いたりはしない。
「残念だ、XANXAS。お前にオレは殺せない」
 明日には殺されてしまうオレを、お前は永遠に殺せない。この世界にもう二度と戻らない。過去のオレが10年の月日を飛び越えてきたって、そこにXANXASと共有する記憶はない。
 振り払った手が千切れたみたいに痛い。本当に血が流れ出していたって驚かなかっただろう。今この瞬間にすべての繋がりは断ち切れてしまったのだから。
「でも、お前になら殺されてもよかった」
 こんなことを言って、いまさら何になるのだろう。だけど言わずにはいられなかった。衝動のような焦燥がかたく閉ざしておかなければいけないはずの口をせっつく。だってこれが、最期。
「――オレはお前に殺されたかったよ」
 背を向けていてさえも、どんな顔をしているのかわかる。あらゆる感情の限りを尽くして、10年ものあいだずっと互いだけを見続けてきた。
 言い捨てた勢いのまま閉じたドアに、凭れ掛かるようにして崩れ落ちる。もう開けることのない板切れ一枚で隔たるこんなちっぽけな距離。けれど何よりも遠い。さよならを告げた誰よりもかなしい。
 絶対に結ばれないとわかっているのにどうして焦がれてしまうのか。運命とも必然とも呼べない絆、身体を喪ってしまえば、その名前を知らないままでこの気持ちは永遠にさまよっていく。

それが間違いでも背徳でも邪道でも

09/05/24