乾杯をしよう、と先生が言ったので、綱吉は耳を疑った。なんだってこんなときに、と叫びたくなった。けれども見つめたその顔がとんでもなく穏やかだったから、喉のあたりが熱くなった。気道がきゅっと細くなる。
 綱吉は声もなくうなずいて、私室の真ん中にあるティーテーブルに真っ白なクロスをかけた。同じく私室にあるワインセラーからとっておきを持ってきた先生の骨の浮いた痩身をじいと見つめる。鋭く冷たいナイフを思わせるその風貌に伸ばしそうになる手をおさえた。
 手に持ったボトルをひょいと持ち上げ、先生はきれいな発音でラベルを読み上げる。「Les Amoureuses」
「れ、ざむるーず」反芻して、どこかで聴いたことのある言葉だと思い出そうとしっぽを掴んでも、はっきりとわかるくらいに引っ張りだせない。フランスの、やわらかな響き。
 先生は綱吉のお粗末な発音にふっと短く溜め息にも似た嘲笑を吹きかけて、慣れた手つきでボトルからコルクを抜いた。なめらかな曲線を誇るようにすっと立っているグラスに馨りのよい紅ワインが注がれる。長い時間を吸い込んだような深い色。
 ワインを注ぎ終わって椅子に腰掛ける先生を見て、綱吉は胸の詰まるような想いがした。あんなにちいさかった赤ん坊が、こうして椅子にかけても隠れないほど、時間が流れていた。
「もう、十年か」
「早いもんだな」
「うん、早いねえ」
 この理不尽で最凶の家庭教師と出逢ってから、もう十年の月日がふたりの後ろへ流れていた。その流れに乗せて置いてきたものは数知れず、けれど綱吉の背中にはたくさんの大切なものがある。綱吉は明日、闇の世界に生きるあらゆる人間の頂点になる。
「おまえは本当にダメなやつだった」
「う、うう」
 改めて言われてしまうと、それはそれで結構傷つく。否定できないのがなおさらやるせない。けれど昔の、何にもできなかった無力で非力な自分をきちんと知っているひとがいるということに、なんとなく安心するのだった。
「勉強もできねーし運動神経ねーし、おれが居ねーとなんにもできねえ」
「それは、今もだよ」
「いや」目を伏せて、凪いだ風の声で先生は否定する。「おまえはもう立派なボスだ。俺が教育したんだからな」
 酷いひとだ。うっかり反論したくなるのを堪えて、綱吉は愛想笑いをしてみせる。普段は犬猫を叱るような態度と言葉で痛めつけてくるくせ、こんなときばかり褒めるなんてのは、世界でいちばん残酷なやさしさだ。酷くて、やさしいひとだ。
「そっか」ばかみたいに胸のあたりが痛くなる。なんだこれ、感傷ってやつか。ほら、まだまだこんなにダメなのに。「いろいろ滅茶苦茶だったけど、おれ、たのしかったよ」
 痛みを誤魔化したくて言った言葉が思わず過去形になってしまう。ちがうんだ、過去にしたいんじゃないんだ。
 綱吉は高校の頃に故郷で躍起になって脳みそに刻み込んだ、古典や英語の文法の皺をなぞろうとする。あの頃もよく、目の前の家庭教師に怒られたものだ。そうじゃねえ、そこは過去じゃねーだろーが、バカ。罵られ、叩かれながらも、結局最後まであやふやなまま、高校生活を終えてしまったのを今さら後悔する。ちゃんと覚えておけばよかった。過去にしない方法を、ちゃんと覚えておけば。
「ああ。先輩の髪引っこ抜いたり球技大会でバレーやったり体育祭で総大将やったりな。年頃の男子がやりてーことは大抵やっただろ」
 にやりと笑った顔が、まるで悪戯の好きな子どもみたいだった。その幼さにびっくりして、「やりたくてやったんじゃない」なんて軽口もうっかり呑み込んでしまう。
「そんなことも、あったねえ」
 将来こんな仕事をするだなんて半信半疑で、まったく自覚のなかった、今と比べればおそろしく平和な日々の、ほんのひとかけの出来事。頭のなかをぐるぐる巡る、半透明のそれら無数の欠片のなかのひとつに、綱吉はある日曜日の朝を見つけだす。深い眠りに突っ込んでいた首を銃声で引っこ抜かれた、あの日。

 まだ突然の銃声に耳が馴染んでいない綱吉は、鼓膜を劈くその音にはっと目を覚ました。見回すとすぐに、荒らされた部屋のなか、黒いニット帽をかぶった見慣れぬ男の後姿が目に飛び込んだ。どろぼう! 音もなく叫んだ綱吉に振り返った男は、ベッドの上でわあだかひいだか喚いているあいだにふらふらふらふら近づいて、倒れた。口から流れ出るのも背中に広がるのも、血の真紅。
「おまえが殺したんだぞ」
 うれしそうな先生の言うとおり、綱吉の手にはつめたい光が滑る真っ黒い銃があった。ぶるぶると震えて、涙がとまらなくて、ひたすら怖くてたまらなかった。ひとひとりの命をこんなにも簡単に撃ち射抜いてしまえる手のなかの物体が、そしてそれを使ってしまったことが、怖くて怖くて、震えていた。
 けれどすべてはとんだ茶番で、綱吉の上に倒れ伏したひとは完璧な死体の物真似をするのが得意なモレッティという迷惑人だったのだ。かすかな残滓を残して恐怖が足元から抜けていくと、そのまま力が入らなかった。心臓の真裏に残ったものが、心臓を痛いほど打ち鳴らす。その瞬間に見た先生の顔は、上機嫌にも不機嫌にも見える、底の知れない無表情だった。
 そうしてずっとあとになってから、彼がバイクの間違った運転の仕方をわざと教え、「最初に怖さを知っておいた方がいい。これが俺の教え方だ」、そう言ったとき、心臓が押し潰されるかとおもった。そんなことを言うくせに、あの朝に本物の人殺しをさせなかった、本物の怖さを教えなかったそのやさしさに、思わず彼をぎゅうと、つよくつよく抱きしめてしまいたくなったのだ。

「なつかしいなあ」
 呟いて、はっとする。なつかしい、は、せつない、に似ている。どうしてそんなことに気づいちまったんだろう、そっと唇を噛んだ。よりによって、どうしてこんな、最悪の日に。
 そして本当なら、この唇は噛んだまま最後まで閉ざすべきだった。開いたらくだらないことを口走るのなんてわかっていたのに、それでも、飛び出してきた言葉にせっつかれるまま、口を開いてしまった。
「先生、おれは、あんたをなつかしいだなんて呼ばないよ」テーブルの上に伏せてある、橙色の帯を纏ったつやつやした帽子を見つめながら、綱吉はぽつりと言った。「なつかしいなんて、過去にしないよ」
 相手に絡みつくような、縋る声になってしまったのを舌打ちしたい気分だったけれど、これだけは言っておかなくちゃならなかった。
 このひとがいつか自分のもとを離れて、また真っ黒い闇の中で猫みたいに獲物を仕留めるだろう未来を、もうずっとずうっとむかしから、不思議な力を使うまでもなく綱吉は識っていたのだ。
 けれど現実はもっと悲惨だった。環境や互いの意地なんかよりもっと救いようのない、本物の死神が、その鎌でこの絆を断ち切ろうとしている。
 マフィアのいちばん偉いやつになっても数え切れないくらい人間の命を燃やし尽くしてしまっても綱吉の心が痛むのとおなじように、それはしょうがないことなのだ。この世界にあるしょうがないことを数えたら、指の数なんててんで足りない。それはとてもかなしい。
「もうおまえには会えない」
 なんでもないことのように言った先生の長い長い睫毛が、肉のない白い頬に影をつくった。ああ、こんなに痩せちゃって。故郷にいた頃の、あのまろい輪郭を思い出す。黒曜石のでかくてきれいな眼を思い出す。紅葉を膨らましたようなやらかい手を思い出す。あぁ。
「うん」
「だから、思い出すしかないんだぞ」
「うん」真っ直ぐ見つめ返した瞳は、真っ黒で深くて、引きずられてしまいそう。「わかってるよ」
 先生の身体は、見た目よりもずうっとぼろぼろだった。呪いを受けた彼にとって有害なものがあふれかえるこの世界で、もう立っているのすらようやっと。そして彼の演技は赤絨毯を歩くような俳優よりもよっぽど秀逸だったので、綱吉は先生の限界を見誤った。
 だから初めて先生の身体が崩れ落ちたとき、死んでしまいたいほど自分を憎んだ。 そして、とてもさみしかった。「最初に怖さを知っておいたほうがいい」なんて言ったのに、一生限り、これ以上怖いことなんてないのに、最後の最後まで隠し通していた先生。独りっきりで死のうとしていた先生。こんなにさみしい気持ちを、綱吉はそれまでいちども知らなかった。
 意固地になっている彼を説き伏せて、最期の瞬間まで一緒にいると誓わせたのは、まだほんの三日前だ。ほんの三日前なのに、もう、さようならなのだ。
「それでも、なつかしいなんて、言わない」
 せつなさなんかと一緒に思い出したりしない。
 喉に、目の奥に、せり上がる熱がある。心臓を締めつける痛みがある。ままごとのようにやさしい空気のなかあんなにも笑いあっていた日々を、まるで昨日を振り返るように、想い描く。
 眼を見開いた先生に、綱吉は笑いかけた。その顔はきっと情けないほど歪にちがいない。それでもこんなときに、上手に笑える人間じゃなくてよかった。まだこんなにもダメなのに、先生、あんたはおれから離れていくの。
「さよなら先生」
 声が揺れないように、綱吉はできるだけ短く挨拶を贈った。耳に届いたのは、また明日も逢えると確信している気軽さに満ちた声だった。血液の色より上品な紅色がたゆたうグラスを持ち上げる。
「さよなら、」
 おなじようにグラスを持ち上げた先生は、そこで不自然に言葉を止めた。続く言葉をひゅっと飲み込んだような、あるいは、掠め取って大切にしまいこむような空白。その代わりに差し出されたやわらかな沈黙の正体を綱吉は想像したけれど、どうにも自分に都合のいい言葉ばかりが浮かぶので、泣きたくなった。だって思い出してしまった。この上質なワインに与えられたフランスの響きが、どんな意味をもたらすのか。
 かすかに甲高い音がグラスとグラスのあいだで鳴った。そうしてお互いグラスを傾けて、砂時計の紅い砂をゆっくりゆっくり飲み下す。口には決して出さなかったけれど、グラスが空になってしまえば、それが永遠にさよならの合図だった。
 いつもより何倍も苦い、「恋人たち」と名づけられたワインの味を、それでも味わうふりをしてゆっくりゆっくり飲み込むほかに、最後の瞬間を引き伸ばす方法をだれも教えてはくれなかった。
 願わくはあなたが、最期の瞬間しあわせな気持ちでおれを想ってくれますようにと、祈るだけしか綱吉にできることはなかったのだ。

僕らの優しかった日々は今日もどこかに

2007/08/05