クロームが倒れた、という報せに執務室を飛び出した綱吉は、医務室に入るや否や、純白のベッドに横たわる彼女の手をそっと握った。血の通う人間の、あたたかい、やわらかな手だった。
 付き添っていたのだろうビアンキは、綱吉の姿を目にすると声もかけずにそっと医務室を後にした。どうやら素人が付いていても大丈夫なくらいには容態は良好らしい。
 詰めていた息を吐いて、綱吉はその指に嵌められた銀色の指輪をなぞる。血の繋がらない、そんなものは意味を成さない宿命のもとに契られた「家族」の証。それは同時に、現在の彼女の命を繋ぎ留める鎖でもあった。
 不意に誰かの気配を感じた。誰のものかは判っていたので、敢えて振り返りはしない。代わりに口を突いて出そうになる言葉を喉元で押し殺すのに労力を費やした。
 無言で綱吉の隣に立っている男を慕って真似た彼女の髪は、随分と長くなった。顔立ちも身体も精神もひとつまっすぐな芯を通して成長し、儚さのまんなかに強かさを持った、誰もに愛される女性になった。
「クロームは、強くなったね」
 先程呑み込んだ言葉の代わりに囁く。頷きひとつ返ってこないのを焦れるように感じながら、綱吉はクロームの手を握った手にすこしだけ力を込める。
 本当は、どうしてこんなことをしたんだと罵るつもりで飛び出してきた。けれども声も足音もなく現れた骸のことを考えれば、答えは単純で純粋だった。心の痛むほど。
「沢田綱吉、共依存というのを知っていますか」
「キョウイソン? なんだそれ」
 聞いたこともない言葉だ。生命維持装置の機械音と、それぞれのかすかな呼吸音だけが絡み合う静けさのなか、不意に落とされた骸の呟きに綱吉はクロームを見つめたままで返事をした。
「どこか欠陥のあるひとと一緒にいないと安心できない。そういう状態を指すんだそうです」
「誰の話だよ」
 自分のことを皮肉られているのかと勘繰って訊ねたが、どうも違うらしいと判断してほっとする。骸の赤い目玉は、すべてお見通しとでもいうように、彼の右目に鎮座しているのだ。だからいつでも綱吉はちょっとだけ怖い。死ぬまで心の裏側に隠しておかなければならないとっておきの秘密を、すぐにでも暴かれてしまいそうな、そんな恐怖と対峙しなければ骸の隣になんかいられない。
 右の指先をそっと、隣の骸に伸ばしてみる。素振りすら見せなくたって、気づいてるだろうことは承知だった。
 ペンで擦れたせいで胝のある指は、感触すらなくかんたんにすり抜けた。有幻覚ですらない幻。実態のない虚像。いったい妄想とどこがどう違うのか、綱吉にはもうわからない。これが現実だなんて保証はどこにもないから、ただ、無性に確かめたくなっただけ。まるで言い訳のように、思う。
 きっと一生触れることのないぬくもりを想い描いて、すぐに霧散する。かなしくはない。せつなさもない。けれどなんだか無性に寒気がした。
「さあ」
 飄々と煙を巻く。こいつこそ霧にふさわしいと思うのはこんな時。言葉も、声も、姿さえ、いつだって幻。手を伸ばしてもなにもない。
「この子はもう要らない」凍りつきそうな冷たささえ孕んで、骸は吐き捨てた。「欠けたものがないこの子は、僕に必要ありません」
 横に向けようと思った顔は、思わず俯いてしまう。骸の顔を見ることができなかった。痛いことを痛いと言えない、その術を知らない人形じみた顔を、まっすぐ見つめて泣かないだけの強さを綱吉は持っていなかった。
「だから君も要らない」
 有刺鉄線をぐるぐるに巻いた言葉が突き刺さる。すべて撥ね除けるどころか、傷つけて二度と触れられないようにするための、ひどい、かなしい拒絶だった。
 だけど、「でも、オレにはお前が必要なんだよ」こんな痛みくらい我慢できなくて、彼自身が思っている以上にたいせつな存在であるのだなんて、どうして伝えられるだろう。たとえこの手が傷だらけになったって、剥ぎ取ってやらなければ本音はいつまでも聴こえないのに。「オレだけじゃない。クロームはお前さえ居れば、本当は内臓なんてほしくなかったよ」
 しっかりと顔を合わせて言うと、端整な顔がすこし歪んだような気がした。
「くだらない。何の意味もない」
「それならどうして、クロームの内臓を消したんだ。それこそ何の意味もない」
「利益がなくなったからですよ」
 今度こそはっきりと不快そうに眉をひそめた骸は、苛立ちを声にした。
「ちがう。クロームのために、お前は消えようとしてる。でもそんなのは、ただの独り善がりだ」
 骸はきっと、クロームがもう独りきりで自分の内臓を創り出せるほど力をつけたのを知っていた。それを必死で隠していたことも。だから骸はこんなにも突然に、自分の力で創っていた分を消したのだ。
「お前、怖くなったんだろう。もう要らないって言われるのが怖くて、自分から切ったんだろう」
 血の繋がりより、指輪で縛りつけるよりもの絆をまるで慈しむみたいにたいせつにしていたくせに、こんなにあっさりと切り離してしまうなんてばかみたいだ。クロームがどうして隠していたかなんて考えもしなかったにちがいない。離れたくないからに決まっているのに。どうして六道骸というやつはこんなにも、救いようのないくらい不器用なんだろう。
「オレもクロームも、お前を手放したりなんかしないよ」
 歪めた顔のまま口を閉ざしている骸の姿をした幻に、できるだけまっすぐに声を届けようと綱吉は思った。秘密を暴かれたっていい。骸の存在が不可欠なのだと伝わるのなら、オレはお前が好きなんだよと打ち明けたってよかった。
「バカですか君は」
 心の底から蔑む声音とはまったく釣り合わない骸の表情に、綱吉はとんでもなく驚いた。だってあの骸が泣いているのだ。言葉にするよりもあからさまに、痛いことを痛いと、嬉しいことを嬉しいとめいっぱいに訴えている。
「そうだよ。お前がむかしから言い続けてるみたいに、オレは何にも持っちゃいないよ」
 だからオレの傍に居ればいいよ。やっぱり温度も感触もない左手を握りしめながら言うと、骸は左右で色のちがう瞳からきれいなきれいな雨を降らせた。

 六道骸が復讐者の牢獄から三人の侵入者によって助け出された、一週間前の出来事である。

かえり道のつくりかた

2009/07/26
お題 / fjord [ closed ]