下校を促す放送の声に押し出されて人もまばらな校舎をぶらついていた足は、なんとはなしに応接室の前で立ち止まった。期待もせずにノックした扉の向こうからは、けれど「なに?」というぶっきらぼうな声が返ってきた。ちょっとだけ怯んだあと深呼吸をしてノブを回す。予想に違わない人物と視線がかち合った。
「ヒバリさん」
 校長が使うような広い机の上に書類を広げていたヒバリさんは、顔を上げてすこし驚いたようだった。
「どうしたの」
 右手に持った「並盛高校風紀委員会」と刻まれた万年筆を置いて、ヒバリさんはオレに訊ねた。
「えっと、お話があるんです。お仕事終わったら、すこし時間もらえませんか」
「……別に急ぎの仕事でもないから今でいいよ。帰りながら話して」
 そう言って立ち上がったヒバリさんに続いて後にした応接室をちらっと覗く。中学のころとまったく変わらない配置だった。

 並中を卒業したあと、ヒバリさんは近くの並高に進学した。ブレザー指定なのに学ランを着て、風紀委員会を設立し、校内の人間はもちろん、町内の皆さまへの支配力は衰えることがなかった。
 そんなヒバリさんのいる並高にオレもなんとか進学を果たし、中学の時よりもめちゃくちゃにスピードを上げた生活とリボーンのスパルタに疲弊しながら、それでもたのしい日々を送っている。本来ならば、去年、笹川了平と共に卒業するはずだったヒバリさんと一緒に。
 彼が「いつでも好きな学年」という上級魔法の使い手だったというのを失念していたオレは、三年生の新学期に同じクラスにその姿を見つけておののいた。しかしおそらく、オレよりも大幅にヒットポイントを削られて瀕死状態に追い込まれたのは、学校関係者にちがいなかった。

 校門近くに辿り着いたときに吹き抜けた、薄紅色した花びらが混じる風の来る方向を見遣れば、驚いたことに桜はもう散り始めていた。高校卒業は、はやくも次の日に迫っている。
「明日、式が終わったらあっちに行きます」
 あっち、というのは、南半球に浮かぶ長靴のかたちをした半島のことである。愛と芸術とうまいものであふれかえる魅惑的な場所なのに、オレの気持ちは沈殿したままである。これが観光だったならどんなに浮かれていたことだろう。
 しかし現実は最低だった。オレは、その国でもうひとつある意味で有名な、マフィアなんて物騒なもののボスになるためにイタリアに行くのだ。そして、憂鬱なのはそればかりが問題ではない。
「僕は残るよ」
 予想どおりにすこしの躊躇いもなく告げられた言葉が、心臓を撃ち抜く幻を見た。
「そうですよね」声帯が不必要に揺れ動いて、そんなつもりはないのに、泣いてるみたいな声になる。「ヒバリさんは残るんじゃないかって、おもってたんです」
 それならどうして、身体に穴が空いたように感じるんだろう。そこから血が流れ出してるみたいに痛いんだろう。
 覚悟なんてとっくに決めてたじゃないか。ひばりさんは並盛がこの上なくすきなのだ。世界じゅうにあるあらゆるものの何よりも。だから、「さよならですね」
 声にしてしまったら、それが永遠に繋がっていくような気がして、どうにもならない後悔が積み重なっていく。それはすぐにでも、たったすこしの想い出さえ丸ごと押し潰してしまうだろう。
 忘却はいつだって容易い。望んでなんかいないのに。繰り返し繰り返し想い描いても、まるで擦り切れるようにして薄れていく。
 それならばこの瞬間をできるだけ鮮やかに正確に焼き付けておきたいと願うのに、ピントが合わない。水分が膜を張って、どんどんぼやける。こんなにも無力で情けなくて、そんな感傷にどこか酔っている自分を思い知るのは、いつだってこのひとを目の前にするときだけだ。
 そうしたらヒバリさんは不機嫌そうに眉をしかめ、口をへの字にひん曲げて怒った顔をした。
「なにそれ。きみ、戻って来ないつもりなの」
 ああ、このひとって、一生歳とらないんだろなあ。心のなかで呟いたら、なにか感慨にちかい想いが喉のあたりまでせり上がった。
 それは年齢や見た目の話なんかじゃなく、このひとは死ぬまで子どもみたいに純粋なんだろうという確信だ。
 食べること寝ることとおんなじようにトンファーを振り回したがって、嫌いなものは嫌い、好きなものは好き、わからないことはわかりたくない。そうやってずっと、変わらないんだろう。
 オレはそれがたまらなくこわい。気色の悪い色に変わって歪んでいくだろう自分を、こんなに透明で真っ直ぐな眼で射ぬかれたら耐えられない。
 だからヒバリさんが並盛に残ると聞いて、ため息の出るほどほっとした。なんて卑怯で臆病。海を渡るあいだに彗星の速さで砕け散ってしまうような、ちっぽけな安堵感でしかない。
 だってこんな風に視線を合わせているだけで、もうヒビが入ってしまっている。後ろ髪どころか両足を引っ張られて動けない。明日には永訣すると決めたくせに。
「戻ってなんか来れません。あんなに遠いところから、抱えきれないくらいたいせつなものを護れるほど、オレは、強くないです」
 五年前、黒耀で身体を馳せた戦慄が蘇る。ボンゴレの十代目であるオレの関係者だというだけで命に刃をかけられたひとたち。最悪、喪っていたかもしれないたいせつなひとたち。隣町の距離でさえ自分の手で護りきれなかったのに、ましてや大陸の向こう側からどうやって撥ね除けるのか。
 それならいっそ一切の繋がりを断ち切ってしまうほうがよっぽどマシだ。どちらにしろ一生逢えないことに代わりはないけれど、同じ世界に生きていると思えば笑っていられるのだ。
「なんのために僕が残るか考えないわけ?」
 信じられない、とでも言いたげな声に戸惑う。ヒバリさんがここに残る理由なんて、たったのひとつしか浮かばなかった。
「並盛がすきだから……?」
「じゃあ、僕がなんで並盛が気に入ってるか、わからないの」
「なんとなく、ですか?」
 即答したら頭をべしりとはたかれた。これはトンファーじゃなかっただけありがたいと喜ぶべきところなのだろうか。
 けれどそこまで訊かれてしまうと本当にお手上げなのだ。なんてったって知り合う前から雲雀恭哉というひとは、並盛の風紀を正すことに並ならぬ情熱を注いでいたので。
 呆れたように肺のなかの酸素を吐き出したヒバリさんは、それとは裏腹にいつくしむような声で「それはきみと逢う前」と言った。
「今はちがうよ。きみと僕の生まれ育った場所だから」
「へ?」
 間抜けた声を上げるオレに、ヒバリさんは覚えの悪いこどもを諭すのと同じような、嘘みたいにやさしい表情をした。それは感情を噛み締めているようにも、はにかんでいるようにも見える微笑みだった。
「きみと僕の生まれ育った町だから、僕はここが気に入ってるし、十年後も二十年後もずっと、なにひとつ変わらないように護るよ」
 だからいつでも帰っておいで。
 声にしなくたってわかった。いつもよりとんでもなく饒舌なヒバリさんが言いたかったこと。声にしなくたって。
「ヒバリさん、変わりましたね」
 ちっとも変わらないなんてただの独りよがりだった。もう二度と振り返ることはしないと決めた想い出のなかで、ただ変わらずに留まっていてほしいだけだったのだ。けれどヒバリさんは五年前からすこしずつ、確実に変化を積み重ねていた。
「きみを好きになったからだろ」
 まるで当たり前だと言っているような顔をしたヒバリさんに、たまらず抱きついた。躊躇いも恥じらいもかなしみも掻き消えてただ、いとしい。泣きたいくらい。
「すきです」背骨の軋むほどつよく力を込める。言葉だけじゃ伝わらないほどの想いが、そこから流れ込んでいけばいいのに。「ヒバリさん、だいすきです」
 来年の春になったら、まっさきに逢いに来よう。そして今日とまったく変わらないこの町で、おんなじように、キスをしよう。

伝えたかったなにもかもにはまるで足りないけど

2009/07/19