だれかを想うのが、こんなに胸の痛いことだなんてしらなかった。

 煙草の味は好かないけれど、ばかになりたいときには打ってつけだ。頭に靄がかかってふわふわする。まあいいやって気分になる。何もかもどうでもよくなる。
 別にタバコを吸ってる人がバカだと言いたいわけじゃないのだ。中学生の頃から毎日一箱空けてもテストで全教科満点取るやつを綱吉は知っていたので。しかし彼の場合、きっとフィルタを通したタールとニコチンまみれの空気は酸素に等しいに違いない。
 元々考えることは不得意だった。答えがひとつしかない数学ですらお手上げなのに、迷路より複雑な人間の感情なんてのはもっとも難解である。
 しかもいちばん理解したい相手の声にも表情にも色がついていないというのは、目隠しでゴールを目指すようなものだ。お陰で綱吉は何度でも壁にぶち当たっては崩れ落ちてきた。時には立ち上がれないくらい打ちのめされた。
 綱吉がタバコを吸っていると、獄寺は決まって辛そうな顔で止めた。イタリアに来てから一日一箱が二箱に変わったくらいのヘヴィスモーカーのくせして、「お体に障ります。やめてください」なんて言う。わかってるじゃないか。
「身体に悪いのわかってても君がタバコやめらんないのと一緒だよ」と胡散臭い笑い方をすると、かわいそうなくらい困った顔をした。ちょっと虐めすぎたかな、一瞬後悔がよぎったけれどそのままにしておいた。慣れきってしまっている。感覚も身体もどんどん鈍くなる。怖いとすら感じない。
 初めて吸い込んだときの嫌悪感は、今じゃ信じられないくらい馴染んでいる。肺胞のひとつひとつに染み渡っていく有毒の煙に安心感すら覚える。
 きっとこうして色んなものをなくしていくのだと思うと、心臓が温度をうしなう。痛いのも苦しいのも辛いのも、ぜんぶぜんぶ麻痺した痛覚をかんたんにすり抜けていく。
 中毒といえるほど頻繁に吸うわけじゃない。でも時々無性に身体が求める。ばかになりたくなる。精神も身体も疲れきって、それでも考えることをやめられなくて、だから何も考えられないように。
「バカがさらにバカになってどーすんだ」
 ふと、声が聞こえる。幻聴。言い聞かせるのに、振り向いてしまう。
 闇のなかから闇が現れる。しなやかな猫のように忍び寄る。ああ、幻か。本格的にばかになっちゃってるみたいだ。
「そんなもん吸ってんじゃねえ」
 タバコを挟んだ手をはたかれる。その感覚で幻じゃないと知る。
 火種を呑み込んだままの吸い殻がバルコニーの下へ墜ちていくのを目で追ったけれど、すぐに闇へ紛れて見えなくなった。
「火事になったらどうすんの。つーかなんで、ここ、いるの」
「下、コンクリだろーが」後半の問いかけに答えないまま、リボーンはすんと鼻を啜った。下がりぎみの整った眉が不快げに曲線を描く。「獄寺のか」
「手持ち切れちゃったからもらった。葉巻好きじゃないし」
 マフィアのドンには似つかわしい、あのぶっとくてわざとらしいほど甘ったるい薫りの嗜好品が綱吉は苦手だった。似ているようでまったくちがう。そういう飾り立てた綺麗なものは求めちゃいないのだ。徹底的にちゃちで苦いものでしか誤魔化せない。このぐずぐずと燻る劣等感は。
「なんでここにいるの」
 もう一度、語調を強めて訊ねた。
「悪いのか」
「悪いっていうか、」あの綺麗な人はどうしたんだよ。口に出そうとして、噤む。声にしたら確実に混じるだろう非難の色を隠すために。
 商談に赴く途中の車の中で、綱吉は見た。色素のうすい髪をたゆたわせ、リボーンに腕を絡ませている深紅のドレスとルージュがよく似合う女。
 ばかみたいだ。心のなかで呟く。今時ローティーンのガキだってこんなに稚拙で幼稚な嫉妬なんかしない。そのうえ卑劣な大人の意地と下らないプライドが絡みついていて醜悪だ。見てらんない。
 そんなものを容易に見透かすような眼が綱吉を捕らえる。捉える、じゃない。捕まえる。身動きが取れないようにがんじがらめにする。たったの視線ひとつで。ずるい。くやしい。
 月明かりに白く発光するほど白い指で、リボーンは綱吉の顎を掴んだ。十年のあいだに、身長差はゼロにちかくなっていた。頬のまろみはすっかり鋭くなって、長い睫毛が影を落としている。幼さを僅かに残した顔に、大人の表情。そのアンバランスさに惹かれる。惹きつけられる。
 息がちかい。普段は殺意さえ感じさせるほど暴力的に振る舞うくせに、こんなときばかり繊細にふれてくる。壊れ物を扱うように。もう、ずるいどころの話じゃない。
 唇がふれる。くらくらするのはニコチンが回っているせいか。バルコニーの鉄柵が背中に当たる感覚に驚いた瞬間、隙間からつめたい舌が滑り込んで絡めとられる。ぞわりと肌が粟立つのは、けれど嫌悪じゃない。電気が走ってる。
 身体に力が入らなくなって膝が折れた直後、背を抱えられる代わりに唇が離れた。唾液が顎を伝う感覚に身震いする。頭がはたらかない。
「タバコなんか吸うんじゃねー。まずい」
 眉をひそめて自分の唇を舐めるリボーンの舌をうっかり見てしまった綱吉は思わず顔を背けた。まだ残っている、感触。顔が熱い。
「なんで、こんなことするんだよ」
 睨み上げる。ちくしょう。ちくしょう。
「自分で考えろ」
 囁いて意味深に笑う端正な顔を、思いきりぶん殴ってやりたい。答えをくれる気もないくせに、難問ばかりを吹っ掛けてくるこの悪魔な先生を、綱吉は心底憎らしいと思った。このひとと出逢う前は、だれかを想うのが、こんなに胸の痛いことだなんてしらなかったのに。
 めんどくさい、くるしい、もどかしい、くやしい、わかってても、それでもやめらんない。こういうのこそ、中毒と呼ぶにふさわしいんじゃないだろうか。煙草よりずっとタチが悪い。
 だからいつだって考えてしまう。オレのすべてを理解できるのがお前であるように、おまえを理解できるのがオレだけであればいいのに。

好きになりすぎたほうが負け

2009/07/14