笹川京子というひとは、いつだってだれよりも真実が視えていた。覚悟が炎に変わる不思議な力も、どんなに傷んでも倒れない強靭な身体も、目に見える強さはなんにも持っちゃいないけれど、誰より心をしっかり持ったひとだった。
 そんな笹川京子と恋人という関係になったのは、三年前、中学を卒業した日だ。卒業式の日に砕け散るのを覚悟して告げた想いは、とんでもないことにやさしく受け止められたのだった。
 しかし恋人というのはちょっとばかり仰々しいかもしれない。だってまだキスまでしかしたことがないのだ。
 その事実にいちばん驚いているのは、実は綱吉自身である。あんなにも焦がれて夢想した未来が、こんなに明瞭にかたちになっているのに、ひとつも実感がわかない。三年経ったいまでも。
 そればかりが問題ではないとは薄々勘づいてはいるものの、見ないふりを決め込んでいた。
 けれども笹川京子というひとは、困ったことに、だれよりも真実を見抜けるひとであったのだ。

 放課後、ふたりで河川敷の傾斜に寝そべって、それはしあわせというものを絵にしたようだった。夕日のオレンジにピンクとうすい紫が交じって、雲は自分がいちばんきれいに見えるポーズをとっている。
「ツっくん聞いて! 人間ってね、ずうっとむかしは二人で一人だったんだって!」
 とっておきの宝物を自慢する声でそう言った京子は、スクールバッグからメモ帳とペンを取り出して何かを描きはじめた。
 付き合うようになってから、呼び名が「ツナくん」から「ツっくん」へと変わった。母親と同じ呼び方というのはなんとなく気恥ずかしいものがあるものの、彼女のなかで何かしら変化があったのだろう。一方で綱吉は未だに「京子ちゃん」呼びなのであった。なにしろ憧れのマドンナというのは今でも変わらないので。
「こんな感じでね、パーツも力も頭の良さも今の人間の二倍だったんだって」
 見せられたメモ用紙には、球形の身体に二つの顔、二つずつの手足がくっついた、お世辞にも人間とは呼べそうもない物体がどーんとへばりついていた。
「うーん……今の時代に生まれてよかったかも」
「あはは!」
 ああ、この笑顔。日々の荒んだ生活に擦り切れそうになる気持ちがあっという間に癒される魔法を味わう。
「でね、あんまり色んなことができて悪さするようになったんだって。そしたら、」言いながら突然、京子はメモ用紙を半分から真っ二つに引き裂いた。「神様が怒って半分コにしちゃったんだって」
「……シュールだなあ」
 どんなに言い方が可愛くたって、えげつないことに変わりない。純粋さとは時に残忍なのである。
「だから今の人間はもうひとりの自分を探すために恋をするんだって! 素敵だね」
 恋をする女の子はきれいだ。羽根が生えてきそうにふわふわ、きらきらしている。
「すごいね」
 もっと気の利いたことが言えやしないかと言葉を探すけれど、どれも陳腐な気がして、結局ありきたりになってしまう。いつだって。それでもいいよ、と笑ってくれる京子のそのあたたかさが好きだった。
「実はね、この話リボーンくんから聞いたの」
 京子の口から不意に飛び出した名前に胸のあたりがきゅっとなる。最近はいつもこうだ。姿を見かけたり声が聞こえたり、挙げ句の果てにはこんな些細なことにさえ頭で考えるより先に心臓が反応する。
「一人になっちゃう前はね、男の人同士、女の人同士、男の人と女の人がくっついた、三つの種族があったんだって。だからおんなじ性別のひとをすきになるのは、ぜんぜん不思議じゃないんだね」
 なんだかどきっとした。恋のときめきによるものではない。さっきまでのきらきらした声が嘘みたいにしっとりした声で呟いたその微笑みが、なんだか別人みたいだったからだ。
「ツっくん、好きってどういうことか、わかる?」
 まるで子どもに訊ねるようにやわらかな問いかけ。角のない、まるい、彼女らしい質問だった。
「よくわかんないけど、たぶん」
 そばにいてドキドキするようなことはなくなっても、一緒にいると落ち着くような、こういう感覚は「好き」というカテゴリに入れて間違いないはずだ。
「あのね、私、好きっていうのには、ふたつあるとおもうんだ」
 初夏の風が寝そべった身体の上辺をくすぐっていく。うすい夏服の繊維から入り込む。夏のにおいがする。
「ひとつは、本当の自分を解ってもらいたいひと」
 綱吉は声もなくふんふんと頷いた。意外にも京子の話は哲学的なものが多い。そしてそれは世界一やさしい彼女の価値観と感性とに基づいてつくられているので、押しつけがましいところがひとつもなかった。
「ふたつめはね、嘘でもそばにいたいひと。でもそうしてるのが、つらくなるひと」
 寝転がったまま向き合った顔は、見たことのない表情で微笑んでいた。三年間、誰よりもちかくにいたはずなのに、知らない女のひとみたい。
「わかってるのに誤魔化しちゃだめだよ、綱吉くん」
 きちんとした名前で呼ばれるのは、これが初めてだった。本当にいまの彼女はまったく知らない女のひとだ。綱吉の見ていないあいだに、時計の針を一回りも二回りも進めたにちがいない。
「つらくても、離れちゃだめなの」
 ああ、女の子ってのは、なんでこんなに強かなんだろう。身体ばっかり鍛えることに夢中の男どもなんてかんたんに置いていってしまう。そして笹川京子という女の子は、なんでこんなにすごいんだろう。いとしいんだろう。
 言葉を返せないまま、それに比べてオレはなんて卑怯なんだろうと歯噛みする。
 立ち上がって制服の埃を払った彼女は泣きそうに笑って、たくさんの酸素を吸い込んだ割にとてもちいさな声で囁く。声が震えない方法をしっているのだ。
「もう、嘘つけないよ。ツっくんは、私のもうひとりなんかじゃない」
 真っ直ぐに届く言葉、それは間違いなく「さようなら」という意味だった。ちがうベクトルの想いであることを詰ることもなく、いちばん綱吉が傷つかない方法で、彼女は終止符を打ったのだ。自分に傷をつけてまで。
 言うべき言葉を見つけられないまま、ちいさくなっていく背中を眺めながら、自分がどれだけ利己的で酷いやつなのかを嫌になるくらい噛みしめた。空が紅い。

「なにやってんだ、ダメツナ」
 燃えるような紅色を遮って闇色が現れる。初めて出逢ったときよりもずいぶん大きくなった先生をじっくり見つめていたら、感傷が目からこぼれ落ちそうになった。
「オレ、最低だ。京子ちゃん傷つけちゃった」
 先生の目がすこしだけ見開かれた。珍しい。驚いた顔なんてめったに見ることはできない。
「本当はオレが言わなくちゃいけなかったのに」
 臆病風に吹かれて言い出せなかった真実を言ってくれたどころか、背中まで押してくれた。
「良い女だな」訳知り顔でそう言った先生は、うすく笑った。
「とびっきりだよ」
 あんなに良い女にはたぶんもうお目にかかれない。けれど綱吉はすでに出遇ってしまっていた。ただひとり、嘘をついてでもそばにいたいと想ってしまうひとに。嘘をつくことに耐えきれなくなってしまうだろうひとに。
「帰るぞ」
 そのひとはいつも手を差し伸べて、もう一人では立ち上がれないくらいにオレをよわくさせるのだ。
 そして先生と生徒なんてぬるま湯の関係に満足できなくなってしまったら、きっと懺悔してしまう。
(先生、あんたがオレのもうひとりであればいいのに)
 たとえ本当はそうじゃなくったって、リボーンも同じ気持ちでいればいいのに。

きっとわたしだけのひとではないけれど

2009/07/09
プラトン「饗宴」より