例えるならお祭りだった。
 無神論者か仏教徒がほとんどを占める我らがいとしの故郷では、クリスマスといえばその名にかこつけて、家族や恋人同士で過ごし、プレゼントのおねだりや交換、果ては暴飲暴食、どんちゃん騒ぎの巣窟の出来上がりだ。クリスチャンたちが行う儀式めいた神聖さもへったくれもない。
 とにもかくにも、バレンタイン然りハロウィン然り、日本という国は外国の由緒ある伝統行事を呑み込んでちゃちなイベントにしてしまうのが大の得意だった。
 もそもクリスマスとは、宗教指導者たちの陰謀によって成立した。太陽崇拝のローマの異教徒を改宗させることを目的に、異教徒たちが太陽の誕生日を祝う祭りを行う12月25日をキリストの誕生日として定めたことによる。
 生粋のクリスチャンでもそんな起源を知っている人はすくないかもしれない。そういう意味では日本のバレンタインにちかいものがあるだろう。
 けれども今ではキリスト教最大宗派の教皇がおわしますこの長靴のかたちした島国じゃ、キリストの誕生日祝いで忙しい。もちろん、『我が家』でも。
「Prosit!」
 シャンパングラスを掲げて乾杯をする。昨晩はこの掛け声におびただしい数のグラスが上がったものだが、今夜は数にして2つ。しかも自分を含めて。
「Prosit」
 返される声は苦笑にちかく、綱吉もまた苦笑した。それを見たリボーンは呆れ苛立った様子で「本番は今日なんだぞ。わかってんのか?」と言った。
「本番だからこそ、だよ。クリスマスは家族と過ごすもんだろ」
 もっともらしく諭す口調の綱吉の前には、七面鳥ならぬ脂にまみれてギトギトのフライドチキン(ご存知、カーネルさんの素晴らしい発明品)やら友人が握ってくれた寿司やら生クリームでゴテゴテした苺のケーキやらが並んでいた。
 ボンゴレではファミリーとのクリスマス当日のパーティーというものを、綱吉が10代目に就任してから一度もやったことがない。つまり、ボンゴレファミリー同士はイヴにしかクリスマスを祝わない。なぜなら綱吉の持論は先程言ったとおり、「クリスマスは家族と過ごすもの」だからだ。
 そんな風習にはお構いなしの日本の生まれのくせ、普通のファミリーであればクリスマスには集まるところを実家に追っ払う。そんなのはきっと綱吉しかやらない。
「つーか、ぶっちゃけ違和感ありまくりでさ」素手でチキンを掴んで噛みつきながら綱吉が愚痴る。「お上品なディナーとか、祈りの言葉とか? こんなんクリスマスじゃねえよー、って」
 ローマ教皇のお膝元に来ても、綱吉はどこまでも日本人だった。正式なクリスチャンのお祝いに納得がいかず、毎年こうして故郷にいた頃のような安っぽいパーティーを開いてようやっと満足する。アホくせえだのただの気まぐれだだの言いつつも、リボーンはなんだかんだで毎年一緒にいる。なぜならクリスマスは家族と過ごすものなので。
 今頃は日本で父親と酒盛りでもやっているだろう山本手製の寿司を器用に箸でつまんでいるリボーンに、綱吉はどこか畏まった様子で切り出した。脂まみれの手を舐めつつ。
「先生あのね」
「なんだ」
「おれマフィアやめようとおもう」
「勝手にしろ」
「あーやっぱり……って、え? えええええ?」
 てっきりばっさり切り捨てられるのだろうと思っていた綱吉は、信じられない気持ちを精一杯に見開いた目で表した。
「リ、リボーンさんちょっと今のもう一回」
「好きにしろって言ってんだ」
 今度こそはっきりと耳にした言葉を、理解して、なおさら信じられなかった。あんなにも抵抗し、引き摺られるようにして座らせられた椅子を離れることを、こんなにもあっさりゆるされるなんて。
「俺を連れてけよ」
 そう言って微笑った先生がかっこよくて、やさしくて、綱吉はうっかり泣いてしまいそうになる。
 誓う神様なんていないけれど、何があってもこのひとを一生愛そう、綱吉が初めて誓った聖夜だった。



もうなにもいらないよ

2009/12/025