あいしてます…! 
「十代目、そろそろお時間です」
「ん」
 かるいノックのあと呼びかける獄寺に、ネクタイを締めながら綱吉は応えた。結び方は元家庭教師が教えてくれたやつだ。中学のとき巧く結べなくてぐずぐずやっていたのを見兼ねて、結び目を先につくってから首に通すというやり方を教えてくれたのだった。今ではやろうと思えばダブルノットだってふつうに結べるのに、それからずっと癖になっている。
 そういえば、と考え直して鏡に映った姿を見れば、スーツ一揃いはキトン、靴はボナフェ。ちょうど二年前の今日、二人の赤ん坊から贈られたものだ。どちらもきっとオーダーメイドにちがいなく、彼らの作品は職人の技量と魂とを尽くして型紙から造られる。普段着にするにはあんまりもったいないので、知らず知らず着る舞台を選んでしまうのが難点。
「ツナー?」
「ああごめん、今出る」
 山本ののんびりした声で我に返って、最後にざっと確認をしてからドアを開き、右腕と懐刀に挟まれて廊下を歩き出す。つま先の方向は二十四回目の誕生日を祝うパーティ。まったく面識がないか、よっぽど険悪な別れの挨拶をした相手でないかぎり、ほぼイタリア全土のマフィアのボスが会いに来る。ドン・ボンゴレへ。
 彼が正式に襲名してから半年も経てば、「ドン・ボンゴレ」の名は沢田綱吉の代名詞として裏の世界で顕揚に振る舞った。なぜなら彼の家庭教師の教育はまったく完璧だったからだ。



 飛行機のなかで眼が覚めるのは明日か明後日か、それとも今か、と毎朝起きるたびに腹を括っていた高校生活は、しかし予想を大幅に裏切って卒業式の列に並ぶことまで赦してもらった。 その代わり式から帰宅したその足で山本と獄寺とまとめてイタリア行きの便へ乗せられたわけだが(奈々はリボーンがきちんと言いくるめたらしかった)、ボンゴレの所有地であるという別荘に引きこもって、そのあとも家庭教師の熱心な指導は続いた。
 別荘には別便で連れてこられた了平とランボ(プラスアルファ、なぜかビアンキとフゥ太)も一緒に突っ込まれたが、おなじく守護者であるはずの雲雀は案の定というべきか、自覚の有無は別としていちおうボンゴレに籍をおきながら並盛に腰を据えることにしたという。 骸とクロームに至っては敵か味方かすらも判別不能だ。
 そういった紆余曲折を経て、リボーンに出遭ってから八年間みっちり骨の髄まで叩き込まれたボスの心得により、いくら貧相な日本人の形をしていたって内心では肉食動物に囲まれたウサギのごとくぶるぶると震えていたって、周りからは威厳のあるボスのように見えるらしかったし、 条件反射になるくらい矯正させられた身ごなしは誰の眼にも由緒ただしいボンゴレにふさわしいものだった。
 そうまでして完璧なドン・ボンゴレ十代目を仕立て上げたのに、けれどリボーンは綱吉が細胞のひとつぶまでマフィアに染まることを良しとしなかった。 綱吉が銃を握るとき、またはグローブをはめるとき、非道になれ、冷酷であれと心臓がつめたくなる声でささやくくせ、仕事がいっさい絡まないプライベートでは日本にいた頃とすっかり変わらないやりとりや生活を望んだ。 おかげで日本食を恋しく想う頻度は極端にすくなかったし、別荘のなかは渡海前とぜんぜん変わらず騒がしく、むしろうるさいくらいで、さみしいなんて言葉の意味を識るひまもない。
 本物の悪魔になりきれなかった綱吉にとって、だからこの仕事は本当に苦しくってしんどい。しかし困ったことに一歩外へ踏み出せば無意識に、言葉の裏で相手を威嚇する話し方は口を押し開いて流れ出るし、瞳の色や指の動きのひとつすら牽制をはたらいた。 そうやってむかしとまるで変わらない軟弱な本性をぼろぼろにして帰れば、それでも、あったかくて心のやわらかくなるような夜があるというのは、うっかり泣いてしまうほど救われた気持ちになるのだった。

 こんなにおそろしく暗澹とした世界に引きずり上げてきておきながらそんなせつないやさしさをくれるリボーンというずるいやつは、ところが綱吉がボンゴレの屋敷で二十二歳の誕生日を迎えるあいだ、つまり彼が正式にボンゴレを襲名したその日にまぼろしのように消えてしまった。その日着るためのスーツを置手紙代わりに。
 それ以外、リボーンが存在していたという痕跡も証拠も何もかもきれいに消え去って、本当に実在していたのかどうかさえわからなくなってしまうほど、それは皮肉なくらい完全無欠なヒットマンの仕事を思わせた。
 その三日後、こいつならもしかして識ってるんじゃないか、と綱吉が赴いた先は裏マフィアランドだった。イタリアに渡ってからもしょっちゅう飛ばされたその南の島にいるのは、そんなわけである意味もう一人の家庭教師であり、リボーンとおなじ虹の呪いの証を首に下げた金髪碧眼の赤ん坊である。
 襲名前のシュミレーションとして取り組んだいくつかの仕事で手助けを求めることもあったし、別荘でのんびりお茶をすすりながら世間話をすることもあった。ボンゴレに属しているわけではないが、綱吉との係わりは決して薄くない。
 靴のお礼も兼ねつつ、リボーンとは腐れ縁だと言っていたそのコロネロなら所在のヒントくらいは持っているかもしれないと意気込んで出向いたにもかかわらず、裏マフィアランドの入り口はかたく閉ざされ、責任者であるコロネロの姿も当然見当たらなかった。
 おそらく彼もリボーンとおなじ理由で消えたのだろう、と溜め息をついたのは、当てもなく捜しまわってふと見上げた夕空に藍が混じる頃だった。だって彼らはアルコバレーノなのだ。
 そんな風に気取って言ってみるものの、歳をとらない彼らの不思議な呪いについて、綱吉はまったくと言っていいほど何も識らない。 それは彼らが綱吉に何ひとつの取っ掛かりすら与えないように、徹底して気を張っていたからだ。もちろん尋ねたって巧くはぐらかされるのが常で、そこまで頑なに隠すからには綱吉がかんたんに暴けるもんじゃないのだとその沈黙から覚って、いつからか綱吉は彼らの秘密について探ることをやめた。
 本当は、自分が確実に歳を重ねていくのを実感するたびにまるきり成長する素振りのない彼らを見ては、なんだか心臓のあたりがぎゅっとせまくなるようだった。ほんのちょっとずつだけでも背の伸びている綱吉との差が、それでも確かに広がっていくのを意識すると痛みだすのだ。
 けれどそんなもの、身体のまんなかにぽっかり穴が空いているようなこの感覚に比べたら、ずっと救いがあったのかもしれない。感情のまま泣くこともできずに、それこそ当てもなく世界中を捜してしまいそうなこのどうしようもない妄執。途方にくれてしゃがみこんでも、ふっと過ぎる影に取り憑かれたようにその残像を追う。 しかもこういうときに限って超直感なんてものが、彼らが確かに生きているということを切実に訴えかけるのだった。

 そんな生活が二年も続いた。そのあいだ昼は相変わらず病んだ社会を食いつぶし、ボンゴレの名をさらに脅威へと育て上げた。そして仕事が終わればアルコバレーノに関する情報を漁りまわる。その繰り返し。
 見兼ねた幹部である守護者たちが慰めや忠告をくれたが、こどものように耳を塞いだ。あげく、並盛に根を生やしたはずの雲雀までもがひょっこり現れて、ご自慢のトンファーの一撃によって無理矢理寝かしつけられたこともある。
 倒れても、絶望しても、次の日には繰り返してしまう。綱吉にとって、夜はもう安らげるものではなくなってしまった。



「Buon compleanno, Don Vongola」
「Grazie mille」
 祝いの言葉とともに差し出される手を握り返しながら、綱吉は笑っている。すこしの綻びもないきれいな微笑で。 この笑顔のもと、交渉や取引の類を持ち出すような無粋な輩は翌日には行方不明決定、発見時は亡骸になっているだろう。大抵のボスならば内輪ですませるところを他ファミリーまで招いて行われるドン・ボンゴレの誕生パーティは、だからとても盛大かつ穏やかに始終する。そういう決まりだ。
 この日もそんな暗黙のルールに則って三時間ほどのパーティはお開きとなされ、今宵ばかりは育ちのよさそうな猫の皮をかぶった獣たちは、闇社会を巧く回していくために各々の住処へ帰っていった。
 幹部や構成員たちが蟻の一匹でさえもしっかり屋敷から追い払っているころ、獄寺を従えて私室へと向かう綱吉はタイを緩める。優秀すぎる右腕のどこか気遣わしげな視線の言わんとすることにはそっと微笑い返して黙らせた。これだから獄寺はすきだ。自身をおろそかにしてまで心配して色々気遣ってくれるが、最終的には綱吉の意思を尊重する。 本気で慕ってくれているのに申し訳ないという思いはあっても、こういう性分なのだからしょうがない。
 もう日付が変わって数時間経っているので睡眠時間は限られている。その後のスケジュールを読み上げたあと、就寝の挨拶を残して獄寺が部屋を去った。着替えなければならないと解ってはいても、なんだか何もする気が起きずにそのままベッドへ倒れこむ。それでも眠気はやってこない。
 ここ最近、綱吉にはひたすら眠りに費やすだけの時間が訪れていない。別に故意的に取らないようにしているわけではなく、言わば辛うじて幻覚症状のないナチュラルハイのような。
 とうとう、十年も経ってしまった。出遭ってから。この十年間、彼らのことが頭から抜け落ちたことはない。いつだって振り回され、悩まされ、そしていつくしみつづけていた。 本物の家族や兄弟のように、もしくはそれ以上にもっと特別に。話をするのさえ嫌になったことも、心の底から憎んだこともあった。それなのにどうしてか、どうしたって、彼らはいつも特別だった。

 眠るように瞼を伏せて横たわっていると、代々にわたってボンゴレの時代を刻んできたのだろう古時計の秒針の音にまぎれて、衣擦れのようなかすかな音、あるいは超直感に引っかかったのかもしれない気配を、綱吉の感覚器官が捉えた。 直後、自分でも驚くくらいの素早さで掴んだのは、まったく識らないようで、なのになぜか懐かしい感触だった。
「狸かコラ」
「あんまり気配がないから死んでるのかと思ったぞ」
 眼をこすったり瞬かせたり、頬をつねったり、とにかく様々な方法で今自分が覚醒しているのかを確かめたが、結論、それはまちがいなくの現実だった。
 掴んだ腕を辿った先に見えるのは金髪碧眼、二十歳前後の軍人仕様の青年で、その隣には嫌味なくらい整った容姿をボルサリーノの影に隠した黒スーツの男が立っていた。
 からからに渇いた喉が音を絡めとって、言葉は声にならない。開閉させているはずの唇は、しかしただ戦慄いているだけのようだった。
 だから夜を纏ったような男の耳に馴染んだ声が、憎らしいほどのイイ笑顔つきで「Buon compleanno, Tsunayoshi?」と囁いたことによって、それらが元家庭教師二人の本来の姿であるのだと確信するまで、綱吉は今まで頭に叩き込んできたあらゆる言語をすっきり忘れ去ってしまっていた。
「は、あああああああああ!?」



 話によると、その身に受けた彼らの呪いは、ノン・トゥリニセッテという放射物質を大量に浴びると死に至るという本当に特殊なものだった。 それが誰によってどのように放射されていたのかは複雑で長ったらしい説明のせいでさっぱり頭に入らなかったが、とにかく本来であればこの時代にはすでに致死量以上充満している予定だったのだそうだ。
 ところがヴェルデというアルコバレーノがそれを察知し、どうにか無効化する方法を発見した。それがちょうど二年前の話。
 その後アルコバレーノたちは超秘密裏に無効化作業に尽力し、さらには元凶である呪いの仕組み自体を解き明かして元の姿(ちなみにコロネロは十八歳、リボーンは二十五歳)に戻ることまで成功させてみせたというのだ。たったの二年で。脱帽どころか脱力だ。これじゃあ「オレの二年を返せ!」なんて、みっともなくて罵ることもできない。
 そう思っていたのに、しかしどこまでも我が道を進みつづけてきた二人はものの見事にたいへん希少な綱吉の地雷を踏んでくれやがった。
「お前ももう立派なボスに成り上がったんだ。俺らはもう必要ねーだろ」
 むかしは識られたくないことまで何もかもお見通しだったくせに、この二年間どれだけ死ぬ気で彼らを捜していたのかまったくわかっていないのだと思ったら、なんだか笑ってしまった。笑いすぎて思わず涙がでた。
 狂ったように笑ったあとでいきなりめそめそやりだした綱吉を見て、元家庭教師の二人はめずらしくうろたえているようだった。 だからもっと困ってしまえとばかりに綱吉は泣き倒した。中学生の頃でもこんなめちゃくちゃに幼い泣き方はしたことがない。
 いいくらい泣き止んでから、すっかり閉口している二人へ向けて綱吉は思いつくかぎりの罵詈雑言を吐きまくったが、今まで生きてきたうちでそんなことは初めてだったのでレパートリーの中身は反抗期の小学生よりひどい拙さであった。パロラッチャのひとつも出てこない体たらく。
「おーよしよし、悪かったな」
 綱吉の頭をぐしぐし撫でながら、リボーンが宥めすかそうと試みる。その手をばしっと払うとめちゃくちゃ驚いた顔をされた。そりゃそうだ。手を振り払うのはいつだってリボーンの方だった。たった今それが逆転したのだ。
「お前らオレが、どうしてオレがこんな怒ってんのか、ちゃんとわかってんのかよ!」
「……黙って置いてったからか?」
「ちっがうよこのにぶちん!」
 時おりものすごい天然バカっぷりを発揮するコロネロにしては上出来な回答だったが、あいにくそんなことで怒っているのではない綱吉の言葉は痛烈だった。マフィア界最強と謳われる七人で最も強靭な体躯が跪いたくらいに。
「オレがなんで今まで、やりたくもないこんな仕事やってきたか、わかってんのかよ!」
 黙って置いていかれたのは、まあそりゃあ、傷つかなかったと言えば嘘になるが、そんなのは「呪いを解くためだった」という一言で瞬く間に完治した。 だってその呪いを解かなければこうして二人の姿を見ることすらできなかったのだ。わざわざ逢いにきたという点も大幅にプラス点だ。
 だけど二人は今の綱吉を見て、自分たちはもう要らないだろうなんて勝手な感傷で本当のさよならを言おうとしたのだ。赦せるはずがない。
「お前らと対等になるために、こんな、こんな頑張ってきたのに、やっと追いついたとおもったのに、なんで、バカみたいじゃないかオレ」
 口から飛び出す文句はもはやしどろもどろ。唖然としている二人を見ていると、おもいっきり詰ってやりたい衝動と、それだけ逢いたかった今までの気持ちがごっちゃになって、まるでかたちになんてならなかった。
「もう勝手にしろ! どこでも好きなとこ行けよ、この、このっ」
「おいツナ、落ち着け」
「うっさいバカ! 離せっ」
「いてーぞコラ」
 リボーンとコロネロはついに暴力に物言わせて暴れる二十四歳の腕や足をそれぞれ引っ掴んで絨毯の上に縫いとめ、大人しくなるまで根気強く待った。もちろん目配せで互いに罪をなすりつけることも忘れない。
 数分後、散々わめいて抵抗して疲れ果てた姿は、まるで十年前の、本当に無力なこどもそのものだった。贈ったスーツも靴も心なしかくったりとして見える。
「嘘だよ――も、どこも行くな」
 消え入りそうな声で、ようやっとそれだけ言った綱吉は、意識を飛ばすように眠った。もう何日、何週間ものあいだまともな睡眠をとっていなかった代償だ。
「参った」
 疲れたような長い息とともに吐き出されたコロネロの呟きに同意するようにボルサリーノを深くかぶり直したリボーンは、死んだように眠る元教え子の涙のあとが残る頬をそっと撫ぜた。 ようやく元の大きさを取り戻した手がどんなにかその感触を、それこそ十年も前から焦がれていたのか、綱吉はかけらも識らない。 そしてそんな悪友のめったにない執着をからかいながらも、自身も無意識のうちに同じような感情を持て余しているコロネロは、その光景にむっと表情を曇らせる。
 大切であればあるほど、血まみれた手でふれることすらためらうほど臆病になってしまうなんていう感覚に初めて思い悩まされていても、二人の機嫌はむしろ右肩上がりである。なぜなら「離れる」という宣言ひとつであの意気地なしが怒り狂うほど、それは必要とされている証拠なのだ。うれしくないわけがない。
 それでも、一瞬でもはやく逢いたいがために誕生日プレゼントを用意していなかった失態に打ちひしがれている本気の恋愛初心者たちは、実のところ彼らの帰還が綱吉へのいちばんのプレゼントだということに、たぶんしばらく気づかない。

あなたの描くすべてに愛を(感じ、捧げます)

2008/10/27
尊敬すべきだいっすきな根村さんへめいっぱいの愛とハグをこめて!
リンクほんとありがとうございます><
そしてつっくん誕生日おめでとう!(激遅)