ごっこ遊びじゃないなんてことは最初から気づいてるんだ。
ツナはマフィアには向いてないけどボスには向いてると思う。
なんだかんだ言って自分より仲間の事が最優先だし、心にひとつ、まっすぐな芯がある。
それに自分の命に代えても護りたいと思わせるような人間は、たくさんの犠牲の上に立つことを運命づけられているにちがいない。
たとえ本人がそれをまったく望んでいないとしても。
笹川と三浦が作った晩飯を食べている間中、最近すこし覇気のない獄寺はそれでも何かと俺につっかかる。これはもう習慣みたいなもんなんだと思う。
どんなに長い時間過ごしても反りが合わないやつっていうのは必ずいるものだ。でも獄寺の場合そういうのともちょっとちがくて、これはツナに対する立場の相違だ。
獄寺は純粋すぎて、それが逆にツナを追い詰めるのだというのに気がつかないでいる。
無意識に「十代目」と呼ぶ声や期待やら願望やらで輝く眼、そのすべてが、マフィアのボスとしての理想像を押しつけるものでしかないのだと。
けれどそれはそれで必ずツナの救いになるのだ。ツナがボスとしての在り方に迷った時、あるいは誰かに否定された時、なんの衒いもなく本心からボンゴレのボスとして認めるのは獄寺だ。
だからこそ俺はなんにも知らないふりをする。ツナが焦がれてやまない日常に浸りきった存在になる。
ツナがボスであるために獄寺が存在するのなら、俺はいちばん傍にある愛すべき平凡でいるために。
そうして訪れないかもしれないけれどいつかの未来、ツナが逃げ出したいと思ったその瞬間に、なんにも知らないふりをして連れ出すのだ。
どこまでもどこまでも、誰ひとりの手も思惑も届かない世界の隙間まで。
小さな頃によくやった冒険ごっこのような、かくれんぼのような、そんな純朴な遊びの延長線上に紛らわす。
そう、願っていても。
「山本の夢も叶えばいいね」
どんなに繕っても泣きだしそうな顔でそんなことを言うものだから、本当はツナが何を言いたいのかを無意識のうちに悟ってしまう。
そうすると俺の顔は心と裏腹に微笑う。この顔に弱いのを識っていて、それがツナの想いを利用しているのだとしても、続く言葉を絶対に言わせたりはしない。
そのやさしさこそが、俺を日常に戻したいとねがう気持ちが俺を追い詰めるのだって、だってツナも知らないでいるのだ。
野球なら人と道具があればイタリアだって北極だって、どこでだってできる。それこそ趣味でなら死ぬまで。だけど今はちがう。
今の夢が叶うには、どうしたっておまえがいなきゃどうにもならないんだ。
「今の夢はツナたちと死ぬまで一緒にいることだぜ?」
なあ、だからツナ、俺のこと切り捨てようなんて思わないでくれよ。