劣等感なら慣れっこだった。
 身体が大きくなって心が複雑な迷路になるにつれ、周りの人間と自分との差が定規を使わなくてもいいくらいはっきり見えていった。
 それは単に身長だったり足の速さだったり力比べだったり知識だったり、とにかくオレには色んなところが足りてなかった。
 その透明な距離がどんどん開いていってとうとう追いつけなくなるころには、諦めるということを覚えていた。
 「しょうがない」って言葉はいつだって、焦燥やもどかしさに傷む心の痛みを宇宙のはしっこに飛ばしてくれる。何にも持っていなくて何にもできないオレが唯一使えた魔法。
 けれど10年前に現れた真っ黒いちいさな神さまは、無力のオレに新しいおまじないを教えた。呪文を唱えなくたって誰よりもはやく何よりもつよくなれる。それはもうこわいくらいに。
 実際、オレはそのとんでもない力を恐れていた。臆病でずるくてよわい、本質的なところはまったく変わっていないのに、まるで別人みたいになんでもできてしまう。
 本当の自分に戻った瞬間、塞がっていたはずの傷口が劣等感に疼きだす。魔法がかからなくなったら、魔法使いにさよならを言わなくちゃならない気がしていたのだ。

 捌きかけだった書類の山をひとつ崩し終わった。来客の去ったあとのなんとなくさみしい雰囲気を吸い込んで溜め息をつく。ハルはとにかく元気がいいから、一人の執務室はなおさら静まりかえったように思える。
 オレはハルをこちら側に招くことに誰よりも反対していた。実は今でも抵抗がある。「女の子がなに言ってんだ」なんて怒鳴ってもてんで聞いちゃくれなかったけれど。
 派手な言い合いを繰り返して結局折れたのはオレだった。その代わり、何があっても自分の命を優先することと、自分を含む誰かを守るため以外に銃を使っちゃならないという約束をさせた。
 それはオレが元家庭教師にさせられていたのと一字一句違わぬものだ。
 オレがそうやって言い聞かせたのは、ハルに人殺しなんてものをしてもらいたくなかったからである。命を懸けるのなんて論外だ。彼女には、好きな時にいつでも日常に戻れるのだというのを自覚していてもらわねばならない。
 けれどもリボーンがオレに約束させた理由はわからない。同じ理由かもしれないし、ただ単にオレの射撃の腕がおそろしく酷かったからかもしれない。
 唯一はっきりとわかるのは、「他人の命の重さを忘れるな」という言葉のなかに後悔と自負があったことだけだ。
 彼はきっと奪った命ひとつひとつの重みを、あんなちいさな背中に背負っているにちがいない。それを想うと思いきりぎゅっとしてやりたい、のに、叶わない。いつだって手は振り払われた。
 

 急に開かれた扉の向こうにいる姿を見て、オレはこれ以上なく驚いた。もう二年ものあいだ顔を見合わせることのなかった元家庭教師の先生が居たからだ。
 ドアの向こうと執務机とのあいだにある距離はきっとずっと埋まらない。それはふたりのあいだにあるあらゆる距離とおんなじように。
 「オレじゃ釣り合わないんだからしょうがない」なんて使い古してすりきれた理由がどんなにうすっぺらくなったって、かなしくなるにはじゅうぶんだった。
 慣れきってしまった劣等感にこんなにも心臓が痛むのは、そのぶんだけ届かない距離があるのだとわかってしまうから。
 全知全能の神さまは、けれど本物じゃなかった。傷つきもすれば血も流れる。だれよりも遠い、神さまにいちばんちかい人間だった。
 その手にふれることをようやく赦してもらえたとき、だからオレは心の底から後悔した。どうしたって届かない存在だったなら、この気持ちは生まれたばかりの儚さで死ねたのに。リボーンはいつだって、こんな汚ならしい感傷もひとつ残らずきれいに咀嚼してしまう。
「久しぶりだねえ、先生」
 二年間の空白は、名前を呼ぶことすらもできなくなるほどに大きかった。あんまり頑なに避けられているものだから、いっそヒットマンの『仕事』でもいいから会いに来てくれりゃいいのにとさえ思っていた。
 そして今、この瞬間。やってきたのは死神か神さまか。そんなのはどっちでもいいとさえおもってしまうオレは相当おかしくなっているに違いない。それともリボーンが離れていってすぐにオレはどうしようもなくなっていたのかもしれない。
 魔法だけを残されたって、魔法使いがいなければ、まるで醒める夢のように、なんの意味もなかった。
「好きに使え」
 ぶっきらぼうに言い捨てて弾き飛ばされたものを見てすぐにそれが何なのかがわかった。データチップ。恐らくはフィンツォーネファミリーのもの。
 一瞬だけ、視界も脳みそも真っ白に染まる。その空白に雪崩れ込んでくる感情がいったいなんというのか、今のオレには到底わからなかった。だって答えをくれるのは、リボーン、いつだっておまえだったのに。
「リボーン、おまえ、本物の神さまだったらよかったのに」
 相手との距離を完璧に隔てるために教わったつくり笑いで言ったなら、偽物の笑顔とおそらく意味不明だろう突飛な発言とに、幼さののこる顔が不機嫌に染まった。それにちょっとだけ自虐心を掻き立てられて癇癪玉が割れてしまう。
「なんで間違いだって言ってくんないの」
 この感情がただの憧れで、こどもが星をねだっているのとおんなじなのだと言ってくれるのを、オレは死刑宣告を待つ犯罪者のように怯えながら、焦れるようにこの二年間ずっと待っていた。決して願っていたのではなく。
「間違ってないからだぞ」
 それなのに先生は、今までにないくらいやさしい声でそんなことを言う。絶対に埋められない隔たりの向こう側で微笑う。
 オレは何でも独りでできてしまうひとの痛みがわからない。だけど独りのさみしさなら知っている。こんな風にやさしくされたら、そんなちっぽけな共感ひとつで傍に居ることを赦されるような勘違いをしてしまう、から、やめてほしいのに。
「お前きっと、後悔する」
 冷たいふりして本当はとんでもなくあったかいひとだから、先生はきっと死がふたりを別つまでオレを手離さないだろう。そうしたらこのひとは、いつかオレのために死んでしまうかもしれない。手を離さないように、見失わないように毎日神経を磨り減らしながら、オレを脅かすものすべてに片っ端から鉛玉を撃ち込んでいくのかもしれない。
 そしていつか、背負った命の重さにとうとう潰されてしまうかもしれない。
 そんなのは嫌なのに。そんなことをしなくたって、隣にいてくれるだけでいいのに。
「オレが後悔なんかするわけねーだろ」
 心からの切望を受けとめて不適に微笑んでしまうリボーンは、やっぱり神さまでも魔法使いでもない。未来のいつか、どんなかたちであれ命が終わってしまう運命にある、だれよりも守りたくて大切にしたいたったひとりの人間だった。
「なあリボーン、こういうときはなんて言えばいいのかなあ」
 こんなにやるせなくてあったかい気持ちを、憧憬でもなく慈愛でもない呼び方で、なんて名づけるのだろう。
「わかんねーな」
 どんな質問をしても答えてくれた先生は、めったになく困った顔をした。なんだかそれがたまらなくせつなくて、うれしくて、泣きそうになる。目から零れ落ちそうになるものを引き留めるために、オレは情けなく不器用に顔を歪めた。
「でも、」リボーンはこの二年間越えることのなかった境界線のなかに踏み込んできた。決して埋まらないと思い込んでいた距離を縮めて、春風のような声でうそぶく。「言葉なんか要らねーだろ」
 久しぶりに見た真っ黒な瞳は、見たことのないくらいやわらかい色をしている。まるで醒めない夢みたいだった。
 そうかもしれない。言葉なんて無意味かもしれない。だって出会ってからの10年間、名前すらわからなくたってどんなに距離が離れていたって、この想いはたしかにふたりで共有しつづけていたのだ。
「オレなんかもう要らないのかとおもってた」
「そりゃ俺のほうだ」返ってきた言葉に目をみはれば、一瞬だけリボーンは本物のこどもみたいに途方に暮れた顔をした。「俺がまだ必要か?」
「うん。たぶん、一生」
 躊躇いもせず、差し伸べられた手を掴んだ。引き寄せられる。強引な机越しのキスもやさしい。今度こそ涙が頬を滑り落ちた。
 この気持ちが憧れでも幻でもなくてよかった。リボーンが神さまなんかじゃなくてよかった。オレだけのひとで本当によかった。答えをくれるのは、傷口を塞ぐのは、いつだってリボーンだった。

 どれだけの距離があったとしても、オレたちはいつも宇宙の星々よりもの引力で惹かれあっている。

恋しいまでの引力で