第2章 スケープゴートと彼の白 1
数日前にヴァンが連れて来た「彼」を、アリエッタはすぐに受け入れる事はできなかった。
養母を殺されたことへの悲しみや怒り、憎しみは変わらずに彼女のなかに存在し、まだ幼い彼女にとってそれらを誤魔化しながら相手に接するという大人の振る舞いは困難なことだ。
だから睡眠はおろか小憩さえもいつとっているのか分からないほど、ヴァンに武術や譜術などの戦術、地歴や音素学といった常識から専門知識を叩き込まれて疲憊している彼を見ても、寧ろ仄暗い清々しさを感じていた。
そんな風に会話どころか挨拶も交わす暇なく過ごしていた彼を漸く紹介された時には、初めて顔を合わせた時とは全く違う、殺伐とした雰囲気を纏うただの人形という印象を受けた。辛うじて人間だと判断できるのは言葉を喋り、何も映していないかの様に昏く、だがその実すべてを見極め射抜くように鋭い光を宿しているその瞳だけ。
――――この人が、ママを殺した。
大好きだった。物心ついた時には既に母として傍に居る彼女に甘えていた。愛してもいた。彼女が居なければアリエッタは今ここに存在していなかった。
自分の存在根拠を奪った人間が目の前に居る。それを考えただけで、身震いするほどの嫌悪感や憎悪が全身に蠢く。
そんなアリエッタの眼差しに気付いたのか、彼は不意に視線を向けた。怯んでいると思われないように睨むと、意外にもその鋭い光が和らいで見えた事に、戸惑いを隠せない。
無表情にただ薄暗い眼を向けるその面持ちは、何かを甘受している――もしくはすべてを諦めたものにも似ていた。
同じかもしれない。この人と、自分が傍に居たいと願うあの優しいひとが抱えている闇。
ふとそんな事を思った。それはただの感覚に過ぎなかったが、何故か明確な確信。
さっきまで滾っていた激情が、急に静まっていった。それは、かのひとに頭を撫でられた時に不安や焦燥感が凪いでいく感覚にも似ていた。
「待って下さい……です」
顔合わせが終わった後、自室に戻ろうとする彼を引き止めた。心を蝕んでいく憎悪は、いくら落ち着いたからといって、完全に無くなったわけではない。
「アリエッタは……あなたのこと許しません。ママは……あなたたちに殺されたから……!」
振り向かずに立ち止まるその背中に、震える声を抑えて話しかける。どんな顔で、どんな気持ちでこの言葉を聞いているのだろう。
アリエッタは、彼が母を殺めることに抵抗していたことを後に洞窟に居た仲間たちから聞いた。赦したわけではない。多分一生許せない。だけど、彼は自分の意思で母を殺したわけではなかった。だから知りたかったのだ。こうして責めるアリエッタを理不尽だと憤っているのだろうか。それとも……
「俺は許してもらいたいなんて思ってない」
返事が返るとは思っていなかったアリエッタはすぐに答える事ができずにうろたえた。それを解っているのか否か、彼は抑揚の無い言葉を続ける。
「俺がした事もこれからする事も、誰かに許して欲しいわけじゃない。ただ俺は、俺の罪を以て罪を裁くだけだ」
そう言って歩き出す彼を引き止める事も声をかける事もできないまま、アリエッタはその言葉を反芻していた。
まだ幼い彼女にとっては、それを完全に理解するのは困難な事だった。
だが不思議と彼に対する嫌悪感が薄れている事に早々に気付いたのは、幼さ故の純粋さか、特殊な環境で育ち普通の人間よりも本能に素直だからか、それともどちらも持ち合わせているからだったのだろうか。