第2章 スケープゴートと彼の白 3
何もなかった。
恐れるものも、喪うものも、たった一人の血縁を殺されてから。
ただひとつ、復讐だけが生きる意味だった。
「憎しみの連鎖は終わらない――……この世界が滅ぶまでは」
その言葉を今でも憶えている。否、今はこの言葉に生かされている。
「ええいっ! ヴァンの奴にはまだ連絡がとれないのか!?」
酷く焦れた様子で、だが声を潜めて話すしかない状況にさらに苛立ちを増しているらしい。
そんなモースを滑稽に思いつつ、普段から冷淡な声音の温度を一層下げて吐きすてた。
「申し訳ありません。総長閣下はベルケンドに視察に向かわれて……」
「ようやく預言通り戦争が起こせそうなのだぞ。こんな大事な時にあやつは何をしているか」
この哀れな肩書きばかりの大詠師は、自分がどのような立場にいるのか理解していない。自分こそが世界の中心だと思い込んでいる愚かな人間。
「大詠師モースは一足先にバチカルへ向かわれてはいかがでしょうか」
「仕方ない。そうするか」
「お送りします」
地位や名誉、そして預言に縋る姿のなんと愚かしいことか。そんな不安定なものにしがみついて一体何が手に入るというのか。
リグレットはそれと全く対極の男を知っている。縋るのではなく利用し、預言を信じるのではなく壊そうとしているその人は、今までに見たどんな人間より崇高な人物に思えた。
だからそれが弟――マルセルを見殺しにした男であっても、惹かれてしまったのだ。
「――そういえば、アッシュが来ておったな」
「アッシュ、ですか」
それは被験者とレプリカのどちらを指しているのか、リグレットには解りあぐねた。何しろ彼らが入れ替わった事は六神将しか知り得ない情報だからだ。
「それでは私は先にバチカルへ向かう。ヴァンに連絡が取れ次第、至急私の所へ来るのだ」
「了解しました」
ゆっくりと遠ざかる背中に侮蔑の視線を送り、『アッシュ』の正体を探る為に再び教会へと踵を返した。
ざっと教会内を見回ったあと神託の盾本部への入り口へ足を運ぶと、丁度目の前に目的の人物が佇んでいた。それは現在のアッシュ――もとい紅蓮の熾天使だった。
「ここで何をしている」
「お前には関係ない」
「閣下の命令を忘れたか。勝手な行動ばかりしていると身を滅ぼすぞ」
半ば脅しの意味を込めて忠告すると、意外にもその顔は笑みを模っていた。あんなにもヴァンに忠実で畏怖する様子を見せておきながら、その右腕である自分には何も、何の感情の欠片すらも表さない表情をしてみせるのか。
タルタロスやアクゼリュスが崩落する少し前に逢った彼とはあまりにも違いすぎていた。その事実に、何かぞわりと戦慄のようなものが背を駆けていった。
「お前だって解ってるだろ。被験者が裏切っている今、閣下には俺が必要だって」
「だが度が過ぎれば切り捨てる。それにお前は……」
言いかけて、口を噤む。喩え言ったとしても支障は無いが、今言ってしまうのは愚行だ。
「『お前はアッシュが戻ってくるまでの代替品だ』――隠さなくたって知ってるさ」
言い当てた事に得意になることも自嘲することも無く、淡々としたその声にまた、得体の知れないものが思考を支配した。
確かに彼の言うとおり、ヴァンはアッシュが必ず自分の元へ戻ってくると確信して、その間レプリカを文字通り代替品として扱っている。それも、どんなに惨い扱いでも自分から離れることはできないと確信しているからだ。
だが、それは本当に正しいのだろうか。目の前に居る熾天使はそれすらも見通して享受している様にさえ思える。
「リグレット」
まるでそれが金縛りから解かれる合図だったかのように、意識や身体に自分の意志が通る。
「今はお前の心配してるような事は起こらない」
そう言って、教会へと戻る廊下へ歩き出す彼に問い返す事も出来ないまま、リグレットは立ち尽くしていた。
"今は"という事は、いつかはこの危惧が現実となる可能性が高いという事なのだろう。
だが何故か、それに対する焦燥や不安よりもリグレットの心を締めつけるような痛みがあった。
知識だけを与えられた人形。それが彼を形容するに一番相応しいと思うと、疾うに何も感じなくなっていたはずの胸が痛んだ。
それでもその人間らしい痛みさえも捨て去って、ただ敬愛する彼の男の言葉だけを心に刻み直した。
「憎しみの連鎖は終わらない――……この世界が滅ぶまでは」
何もかもを喪ったリグレットは、この腐敗しきった世界を再生するためだけに、生きている。