第2章 スケープゴートと彼の白 7
まるで喪失と空虚の象徴だと思った事がある。
きっかけは部下との些細な会話だった。
『第一師団長は……いえ、六神将の方々は私達の憧憬と羨望の象徴ですから』
力にも地位にも恵まれているからとその部下は言ったが、ラルゴは心のなかだけでそれを否定した。
確かに部下にとってはそうなのだろう。六神将の地位に憬れる者は少なくは無い。だが当の本人達にとって、それは皮肉にしかならない。
皆が大切なものを喪い、その空虚を憎しみへと変えて生きている。
それぞれの喪ったもの、満たされることの無い空虚。抜け出すことの出来ない深淵を這っているこの存在を、どうして羨ましいなどと云えようか。
だがその象徴である六神将同士ならば、僅かでもそれを理解できると自負していた自分にとって、彼の存在だけはまた異質なものだと、対峙する度に思うのだ。
ヴァンの命令により、グランコクマに向かうと情報が入ったイオンを待ち伏せるために潜入したテオルの森。
間が悪く現れたマルクト兵を一太刀で片づけてしまった彼の後姿を見据えた。
初めて逢った時は殺されることはおろか、殺すことにさえ怯えていたあの彼が、こうやって何の躊躇いもなく命を斬り捨てる。それどころか表情さえもなく、感情すら喪ったかのような豹変ぶりに、その違いを知る誰もが戸惑っている。
アッシュの代わりとして六神将の肩書きを担う彼は、誰よりも喪ったものが多かった――否、すべてを喪ったと云った方が近しいのかもしれない。
誰よりも信頼していた者に存在を否定されるその瞬間、彼は何を思ったのだろう。それともその時点で心すら喪ったのか。
「ラルゴ。あいつ先行っちゃうよ。ぼーっとするのは勝手だけどボクらに迷惑かけないでよね」
苛立ったシンクの声に促され、無言のもまま先へ進む彼を追う。
警戒心が強いために、まだ逢って間もない彼を容易には受け入れないと思っていたが、同じく過敏なアリエッタと共にシンクも無意識に心を傾けている。
そして最近彼の元へと戻った聖獣の登場によって、その傾向は更に強くなっているらしい。
彼の態度に明確な違いがあるようには見えないが、きっと二人の幼さゆえに感じるものがあるのだろう。ラルゴでさえ何となくではあるが、聖獣と接する時の彼の表情がふっと和らいだと思う瞬間がある。
それに子どもの感覚は、時に大人よりも敏いことがある。良くも悪くも身を以て知っているのはその二人の影響なのだが。
それと云うのも、ラルゴが喪ったものは本来ならそうなるべき対象だからだ。丁度彼と同じ年頃の、実の娘であるキムラスカの現王女を。
「どうしたのさ。最近あんた考え事多すぎるんじゃない?」
「心配には及ばん」
「……別に心配してるわけじゃない」
拗ねた様子で歩速を速めたシンクに気づかれないように笑う。それが照れた時の癖だと知っているラルゴとしては微笑ましいものでしかない。
二人の後姿を見つめていると、不意に近づいている気配に気づく。前の二人も覚ったらしく、近くにある木へとラルゴと同時に姿を隠した。
「三人」
「……珍しいね、アンタから何か言うの」
「これは――」
死霊遣いだと言う前に、その姿が現れる。それとなく彼を窺うと表情を変えずにただじっと見送っていた。
「良いのか?」
「今此処で騒ぎを起こすのは得策じゃない」
「冷静だね」
「あいつらの気配が近づいてる」
そう言われて探ると、なるほどその通り、消しきれていない複数の気配が近づいている。イオンを攫うには奇襲をかけるのが一番正確だ。今此処で騒ぎ立てて周りの邪魔者に構えられてはいくら六神将三人とはいえ多少難儀にもなる。
過ぎ去る三つの影から接近する標的へと意識を切り替え、完全に気配を殺して待ち構える。
やがて五人の姿を認め、殺した気配をそのままに、静かに武器へと手を掛ける。
「やーっと出口発見! 疲れたぁ〜」
「神託の盾の奴、もう街に入ったのか?」
立ち止まり辺りを窺っている一行のひとりが、付近に倒れていたマルクト兵に気づいて近づく。
「マルクトの兵が倒れていますわ!」
飛び降りてその前に立ちはだかると、すぐさま一本の矢が鋭い音を伴って射られた。片手でそれを掴み取って笑んで見せると、懐かしむ事さえできない相手の顔が強張る。
「お嬢様にしてはいい反応だな」
「お前は砂漠で遭った……ラルゴ!」
「侵入者はお前だったのか!」
「ボクにも気づいてほしいもんだね」
「シンク! あんた達一体グランコクマに何の用なの!?」
素早く戦闘態勢へ切り替わった相手の隙を狙い、彼がイオンへと近づく。それに予想外の早さで反応して斬りかかろうとするヴァンの同胞に、気づいているのか否か全く反応しない彼は動こうとしない。
「――ルーク!?」
「っ……何やってんだよアンタ!」
彼の姿に敵が動転したその隙に、反射的に予め施しておいたカースロットを発動させたシンクは、だが何故か戸惑った様子で手を止めた。
「どうしたシンク」
「いや……別に」
呟くような言葉とは裏腹に、シンクは未だ動揺した気配を残して、同じく彼の姿に狼狽している敵の攻撃をやり過ごす。
ラルゴも戦闘に意識を向けながら彼の様子を見遣るが、彼は柳に風と相手の剣法を受け流している。 それを見てはたと気づく。普通ならば見事だと感嘆するべき彼の剣捌きは、しかし今の状況ではあまりに不自然過ぎる。
本来カースロットとは、施した相手の理性を麻痺させて本能を引き出す術であり、冷静でいられる事など皆無なのだ。
だが目に映る彼は冷静すぎるほどに落ち着いて剣を交えている。
「シンク、お前……本当に操っているのか?」
静かに問うた声に返る答えは無い。ただ唇を噛み、聞こえていなかったかのように戦闘を続けている。
「それとも――術が使えないのか?」
互いに攻撃をかわし飛び退いて合わせた背中越しに、シンクの身体がぴくりと撥ねた。
「ガイラルディアの方は操れる……使えないんじゃない。"掛からない"んだ」
シンクがレプリカだとはいえ、カースロットは導師と同等の力が無ければ使えない禁術。いくら彼の精神力や気力が強いものだとしても抗うのは難しい。すると考えられるのは、カースロット唯一の『相手の望まない事は実行させられない』という難点。
もしそれが正しいとしたら、つまり彼は――。
その時、声を張り上げたマルクト兵が駆けて来たのを見咎め、場の張りつめた雰囲気が幾ばくか崩れる。
「ラルゴ、いったん退くよ!」
「やむを得んな……」
その会話を聞き取ったのであろう彼も相手を薙ぎ払い、その喉元に薄く剣を滑らせて紅い線を刻んだ。それが合図だったかのように床に崩れ落ちた相手を一瞥した後、彼はかつての仲間に背を向ける。
「ガイ……っ! ルーク、待って!」
「ガイはルークの事今でも信じてるんだよ! なんでこんな事するの!?」
「俺がルークじゃないから」
「いいえ、あなたはルークですわ!」
「それを――お前が言うのか?」
ふっと冷たい笑みで返された言葉に、ナタリアが言葉に詰まる。
「それに信じてるなら俺に斬りかかったりしないだろ」
「それは……シンクが操ってたから……!」
「イオン、教えてやれよ。お前なら解るだろ――導師サマ?」
返事を待たずに彼はラルゴ達と同様に素早く駆け去る。少し後ろを付いて来る彼を振り返ることもできず、神託の盾への道を引き返した。
ヴァンに報告を終えた後、それぞれの部屋へ戻るように命ぜられたラルゴは彼の部屋の前へ立っていた。
「入るぞ」
待てど返らない返事にそれを了承と受け取り、勝手に部屋の扉を開ける。
初めて入った彼の部屋は灯りが消されて様相が窺えず、寝ているのだろうと判断する事ができた。
部屋を出ようと踵を返したその時、背後から押し殺したような声が聞こえて思わず振り返る。闇に慣れ始めた目はがらんとした空間と、ベッドに横たわる塊とその隣でバタバタと動く物体を捉えた。
手探りで電源を探して灯りをつけると、ハレーションを起こしたように眩む視界が慣れだした頃、部屋の全容が改めて目に触れる。
目に付くのは備え付けのデスクと椅子とベッド。生活感がまるで窺えない整然とし過ぎている部屋。そのくせ小難しい本だけがデスクの上に隙間なく積み重なり、そこから落ちたのか床にも数冊の専門書や資料が散らばっていて、アンバランスな印象を与える。
そしてベッドの上に視線を遣ると、殆どうつ伏せに蹲っている彼と、抱き込まれるようにして押さえつけられている聖獣が暴れていた。
起こさないように腕を退けると、水中から顔を上げるような勢いで息をするその小さな姿に思わず笑みが零れる。
「あ、ありがとうですの」
「大丈夫か」
「はいですの! ……でもご主人様は苦しそうですの」
その言葉に促されて彼を覗き込むが、特に変わった所は見受けられない。それを察したように、俯きがちにミュウが話し出す。
「ご主人様はいつも苦しそうですの。さっきも寝る前に息ができなくなったのに、ミュウはなにもできなかったですの……」
「……過呼吸、か――」
恐らく心理的ストレスからくる過呼吸症候群だろう。表でどんなに繕っていても、彼の心はまだ喪われていなかった。だがそれゆえにその"心"が壊れていくのだ。
「いっそすべて喪った方が楽だったかも知れんな」
言いながら、実の娘に伸ばすことが出来なかった手で頭を撫でる。こうして見る彼は、ただの儚い子どもでしかない。
暫くして離そうとしたその手を思いの外強い力で引き止められる。まるで縋るようなその手を振り払えず、再び頭へと添える。
「ご主人様……泣いてますの? どこか痛いんですの?」
実際は涙どころか嗚咽さえも流さず、ただ深い眠りに堕ちている。それでも彼は確かに泣いていた。
まるで迷子を宥めるように、本当の子どもにそうするように、何度も髪を撫ぜる。
せめて眠りのなかだけでも、安らかでいられるように。