第3章 嘘の重さで潰れた真実 1

第3章 嘘の重さで潰れた真実 1




 あれは過ちなんかではなかった。
 あの時も今も、自分達の間では正義であり正常な行動だった。
 それなのにそれを過ちとして諦め、過去を切り捨てようとしている。
 それでも正しい結果を出せたなら、きっと認めざるを得ないだろう。
 その為に、ただその為だけにずっと研究を続けてきたのだ。
 自分を懐かしい過去に置き去りにさせたまま、一人だけ未来を歩くなんて、赦せるはずがない。

 久しぶりにヴァンから正規の命が下り、面倒だと思いながらも、それなりにメリットがあると割り切って準備の為に部屋へ向かう。
 鍵を掛けずにいた部屋から、紙の擦れる音が聞こえて僅かに身構えるが、ある人物に思い当たり溜め息が出た。
「――勝手に人の部屋に入らないで下さいよ」
「開けておく方が悪い」
 本当に悪びれも無くそう言ったレプリカは、部屋の中にある書架から本を取り出してパラパラと捲っている。既に眼鏡にかなったらしい右腕の中にある書籍や資料は、これ以上無いくらい彼という存在に似つかわしすぎて苦笑を誘う。
「知ってどうするんですか?」
「さあな。知的好奇心を満たす為じゃないか」
「そうじゃなくて、それ以上――ああ、いえ。あなたがそれで良いなら、良いんでしょうね」
 訊いても明確な答えは得られないだろうと気づき、近頃癖のようにもなってきた深い溜め息を洩らす。
 それを気に留める様子もなく本を捲っていた彼は、視線を活字へと向けながら呟いた。
「意外だな」
「何がですか?」
「アンタの態度が」
「それはこちらのセリフですよ。……あなたは私の目指す理想に一番近い存在ですからね」
 それがただの事実を述べた言葉でも、彼にとっては皮肉にしかならない。
 しかしディストとて、それに罪悪感を覚えるほど酔狂ではない。
 先ほど直接言ったように、彼は自分にとって謂わば"研究の成果"でしかないのだから。
 だが何となく、そう思うたびに何か違和感のようなしこりが残るのを感じていた。
 それが何なのかを、自分はきっと理解する事は無いだろうし、しようと思うことも無いだろう。
「それに」それでもそのしこりをどうにか拭いたくて、思わず言葉を口にしてしまった。しかし衝動的であったにも拘らず、まるで最初から決まっていたかのように言葉は声となって喉を通り抜けていく。「弱っている相手を虐めるような趣味は持っていませんからね」
 届いた言葉に手を止めて、この場所に来てから初めて真面にディストが見た瞳は、ある種の懐かしさを呼び起こした。
 この眼と酷似した眼を、ディストは知っていた。その持ち主を記憶から探り当てた瞬間、よく解らない衝撃のようなものに、ふるりと身体が震えた。
「身体がついていかなかっただけだ。能力が劣化しているからな。それはアンタが一番解ってるだろ」
「あなたがそう言うなら、そうなんでしょうね」
 最初と同じような返事を返すと、その眼は逸らされ、再び文字の羅列を追う。
「――ラルゴにも言っておけ」
 さらに数冊の本を手に取り、我が物顔でそれらを散らかしたディストの部屋から去る時に聞こえた声は、ほんの少しだけ揺れているような気がした。
「今日は厭に饒舌でしたね」
 届かないと解っていて言いながら、彼が読み散らかした本を持ち上げて同じようにパラパラと捲りながら、その理由の仮説が頭を過ぎった。
「馬鹿ですね」
 誰に宛てたわけでもなく、漠然と、そんな言葉が零れた。

「逃げなさい!」
 譜術障壁を造り、子供を背後に庇ったジェイドがそう叫ぶ。
 その声の響きが、その存在が、自分にどういう感情を引き出すのかもう解らない。
 憎しみのようであり空疎な寂寞感。
 それでもただひたすらに、その眼が昔のように自分を捉えるのをずっと望んでいた。
「この忙しい時に……。昔からあなたは空気が読めませんでしたよねぇ」
 しかし昔を語る今はもう、幼い時のような昏さは無く、代わりに自分の外の世界が映り込んでいる。
「何とでも言いなさい! それより導師イオンを渡して頂きます」
「断ります。それよりそこをどきなさい」
「へぇ? こんな虫けら共を助けようというんですか? ネビリム先生のことは諦めたくせに」
 赦せない。
 ジェイドに対する曖昧な感情のなかで、唯一確かにそれだけが、はっきりと鮮烈に浮かび上がった。
「……お前はまだそんな馬鹿なことを!」
「さっさと音を上げたあなたにそんなことを言う資格はないっ! さあ導師を渡しなさい!」
 あれは決して、過ちなんかではなかった。
 それなのにジェイドはあの時の行動を愚かだと言い、禁忌として過去を塞いだ。
 ただそれだけが、赦せなかった。
「――……あなたがどんなに過去を捨てようと思っても、何も変わりませんよ」
 睨み上げる紅い眼に過ぎる、微かな怒り。
 それに仄暗い愉悦を感じながら、少しだけ笑った。
「現に今の沈下だって、禁忌の罪人によって起きたものじゃないですか」
 そして浮かぶのは、出掛けに見た彼の、あの見覚えのある瞳。
「あのレプリカは、昔のあなたと同じような眼をしていましたよ」
「何を、」
「『理解していない』と言うよりは、『理解したくない』のかも知れませんけど」
 その僅かな言葉の差に気づかされたのか、ジェイドは何かを見定めるような眼でディストを見据えた。
「あなたは、変わりましたね」
 てっきり憎悪の感情を向けるのだろうと思っていた。だが予想に反して、彼の話で向けられたものは、何処かやわらかさを含んでいた。
 そして改めて気づいたのは、ジェイドが完璧に自分を置き去りにしようとしているという事。
「赦しませんよ、絶対」
 その言葉の矛先は、目の前に居る彼か、それともその彼の眼に映る『彼』か。
 そうして攻撃を始めたロボットにジェイドやその仲間が応戦し始める。

 誰ひとり、感情がそのまま零れたようなその呟きを聞くこともないまま。
07/06/17