第3章 嘘の重さで潰れた真実 3

第3章 嘘の重さで潰れた真実 3




 その無表情を見る度、全身を駆ける不穏な違和感。以前との差異だけではない、何か。
 考えながら伸ばした手の上、光を反射して物々しく光る自分の仮面を見て、解った。
 本当の表情を隠すもの。心を読み取られないように繕うもの。
 彼のポーカーフェイスは、仮面に似ている。
 それなら彼の本当は、何処だ。

 ドン、と微かな鈍い音が耳に滑り込む。いつもならそのまますり抜けていく類の音だが、妙に気にかかった。そしてこの気配。久しぶりに伝わってきたその気配の持ち主は、意外ではあるが予想通りの人物だった。
「……何してんのさ」
 壁に手をついて蹲った全身を預けている姿に声を掛ければ、壁伝いに身を起こしてそのまま自室に向かおうとする。 "監視役"の名の通り、シンクの部屋は熾天使の隣の部屋へも設けられた。しかしあの男の思い通りになるのも癪に思えてあまり立ち寄らなかった。珍しく気が向いて、初めてに近い入室をすればこれだ。これだからあの男の命令に従うのは面倒なのだ。
「何でも、ない……」
 息を詰めるようにして吐き出された言葉。いつもなら完全に押し殺されている存在感が、微かにだが確かに漂っているのを感じて、何故か身震いがした。人形でも傀儡でもない、生身の雰囲気。
「怪我、じゃないね。アンタに限って」
 だって彼の力を識っている。全てではなくとも、正気を失ったヴァンの同胞を軽く去なしていたあの光景を見れば素人目にだって解る。それ以上に、戦いに身を投じた事がある者なら、空気だけで覚る相手との差。向き合った瞬間に身体が警鐘を鳴らすような。彼にはそれがある。 ―――恐らく、ヴァンの「教育」によって。そう思うと、自分の口の端が歪むのを意識の隅で知覚する。
 シンクは、それが何によって形作られるのかが判らない。それどころか、それが嘲笑なのか苦笑なのかすらも。振り回されていると思う。それでも抗えない、何か。強制力を感じないその見えない力は、もしかすれば、(自主的? まさか、)いや、ありえない。自分が心動かされる事など、この腐りきった世界にありえるはずが無い。
 返事を返さないまま去ろうとした背が、不意に立ち竦んだ。そこに先ほどまでの空気は無い。普段通り、絶対零度の空間が彼を取り巻く。その向こう側、現れた人影に舌打ちしそうになった。
「お帰りですかな、特務師団長殿」
 わざとらしく皮肉めいた口調が放たれる口の歪みに背筋が寒くなる。瞳のなか宿る愉悦の色が、薄闇にゆらりと揺れるのがはっきりと見えた。
「外の世界は醜悪だっただろう」
 心底愉しそうな、しかし不快感を露わにした笑みがゆっくりと近づく。それを真直ぐに見据える彼の表情は後ろからは伺えない。それでもきっといつも通りの無表情に違いなかった。ヴァンと対峙する時の彼はいつだって、仮面のように少しも崩れない。まるで心を探られるのを避けているように。
「人間は何よりも愚かしい。少しの情報操作と権力があれば、手を汚す事無く命を狩る事が出来る。しかも此度の戦争で、それ以上容易に沢山の命が消える。無論、お前が消したセフィロトの所為で」
 眇められた眼が、剣呑な光を孕んで彼を射抜くのを冷めた心地で眺める。ヴァンの言葉は正しい、シンクに反論の意思はまるで無い。人間は愚かしくて醜く、自分が世界の中心だと勘違いしている。預言が何よりの正だと思い込んでいる。それが世界中に蔓延っているなんてとてもじゃない、虫唾が走る。
「お前がどう足掻いた所で、私の計画は止められないのだ」
 ヴァンは恐らく彼の行動を把握しているのだ。把握した上でなお黙認しているのは、手のひらで踊っている事を見せつける為に。完全なる独裁者。
 しかしそうやって嗤う男もまた、一人の愚かな人間である事に変わりなかった。自分が世界の中心だと確信し、これから創り出そうとしている世界が最も正しいと思う事に何ひとつの疑問も持たない。
 それから彼に一瞥もせず通り過ぎ、シンクとの擦れ違いざま、声も抑えずに男はのたまった。
「もう監視などしなくともよい。もう少し手応えのあるものと思っていたが、どうせ何も出来まい」
 吐き捨てて颯爽と立ち去る男に、再びの寒気を覚える。ああ、これは嫌悪だ。
 一度はその常人離れした思考に先見性を見出して協調したものの、最早男は、シンクの最も軽蔑するところの輩に成り下がっていた。傲慢で浅はかな、何処にでもいる"人間"に。
「ねえ、アンタの本心は?」
 既にノブに手を掛けている人形のような姿に問いかける。振り返らないだろうと思っていた顔が、予想を裏切って此方へと向いた。そしてゆっくりと笑みを模ろうとした口が、途方に暮れた子どものように歪んだのを、―――仮面が綻ぶ瞬間を、シンクは確かに垣間見たのだ。
07/12/06