第3章 嘘の重さで潰れた真実 4
状況はまったく最悪だった。
ルグニカ平野全体に崩落の危機が迫っているどころか、ヴァンの企てによりその地の上で戦争が行われ、六神将の動向もヴァンの思惑も計り兼ねている。果てのない暗闇に立ち竦んでも、目前の問題から解決するほか道は残されていない。
停戦の訴えとエンゲーブの住民避難を同時にするため、二手に分かれていた一行は、図らずもケセドニアで合流を果たした。
「ナタリア? どうしてここに……停戦は、どうなったの」
入り口から進んで行けば、ジェイドと先に着いていたらしいティアが焦燥の声音でナタリアに訊ねる。たった二人で住民たちを率いての大移動を成し遂げた隠し切れない疲労が滲んでいる。
「総大将のアルマンダイン伯爵が、大詠師モースとの会談のためにケセドニアへ向かったと聞いたのです。 ―――あなたたちこそ、てっきりグランコクマへ行ったものだと思っていましたわ」
「グランコクマは要塞都市です。開戦と同時に外部からの進入は出来なくなりました」
「そう、ですわよね……」
ジェイドが言い放ったその言葉に、改めて本格的な戦争がたった今起きているのだと思い知らされる。怒りや憎悪、武力と脅威とが真正面からぶつかりあう負の威力の前では、たとえ一国の女王であっても、無力でしかいられない。
それでも、どんなに足掻いてでも藻掻いてでも、抵抗しなければならない。暗闇の先に一筋の希望が見えなくとも、確かな絶望が見えるわけではない。可能性が少しでもある限り、抗い続けなければならないのだ。
「この街に停戦の重要人物がいるんです。先を急ぎましょう」
どこまでも冷静なジェイドの声に背を押されながら、ナタリアたちは不穏が募る街中へ踏み入れた。
疲弊した身体を急かして街中を進み行くと、肌を刺激するほどの緊張した空気にふれた。中央にある国境地帯で柵越しに睨みあうキムラスカとマルクトの両兵は、武器を手にしてはいなくとも殺気立っていて、もはや一触即発の雰囲気である。
「アルマンダイン伯爵! これはどういうことです!」
「ナタリア殿下!?」
堪らずに叫べば、アルマンダインが虚を突かれたような面持ちで振り返った。つられるようにキムラスカ兵は一様に驚いて声を上げ、咄嗟に敬礼をすると左右に退く。
「わたくしが命を落としたのは誤報であると、マルクト皇帝ピオニー九世陛下から一報があった筈ですわ!」
「しかし実際には殿下への拝謁が叶わず、陛下がマルクトの謀略であると……」
「わたくしが早くに城へ戻らなかったのはわたくしの不徳の致すところ。しかしこうしてまみえた今、もはやこの戦争に意味はない筈。直ちに休戦の準備に掛かりなさい」
キムラスカ兵が気圧されたように静まり返り、喉から流れる言い聞かせるような声の裏に潜んでいるものは、それとは裏腹な激情。今まで危うかった均衡が、アクゼリュスの消滅を口実に崩れ去ってしまった。責任を問えば引き合いに出る"彼"の存在を思えば、この歯痒さにはどこにも行き場がない。
「戦場になっているルグニカ平野は、アクゼリュスと同じ崩落……消滅の危険があるのです! さあ、戦いをやめて今すぐ国境を開けなさい!」
キムラスカ兵が感銘を受けたかのように国境からまた少し退き、それは僅かでも確かな光が差し込んだ瞬間だった。 ―――アルマンダインの隣から、モースが進み出るまでは。
「待たれよ、ご一同。偽の姫に臣下の礼を取る必要はありませんぞ」
「無礼者! いかなローレライ教団の大詠師と言えども、わたくしへの侮辱は、キムラスカ・ランバルディア王国への侮辱となろうぞ!」
下卑た笑みを浮かべて、もっともらしく言い放つモースに身体の内が燃えるような怒りが込み上げる。 "偽者"と罵られるのは、こんなにも屈辱なのだ。それが嘘でも、そして真実ならなおさら。
「私はかねてより、敬虔な信者から悲痛な懺悔を受けていた。曰く、その男は、王妃のお側役と自分の間に生まれた女児を、恐れ多くも王女殿下と摩り替えたというのだ」
「……冗談にしちゃあ、随分性質が悪いな」
ガイが険のある声音で呟けば、モースはさらに嘲笑の色さえ含んで言い募った。抑えようのない熱が全身を駆け巡る。
そうして沸騰しそうに熱い頭を冷やしたのは、自信と侮辱に満ちた男の声だった。
「冗談などではない。ではあの者の髪の色を何とする。いにしえより、ランバルディア王家に連なる者は赤い髪と緑の瞳であった。しかしあの者の髪は金色。亡き王妃様は夜のような黒髪でございましたな」
血液が足元に流れ落ちる音が、耳元で。さっきまでの熱が急速に冷えて、凍えるようにさむい。震えがとまらない。
「そんな……そんなはずありませんわ……」
不意に脳裏を過ぎるのは、偽者として今まで生かされてきた彼の言葉。
『なあ、この世界に偽者は必要ないと思うか?』
『それとも自分達は必要とされている存在だから関係が無い?』
『そうなんだろ? 俺は代わりにもなれなかったただの人形で、お前らは重要な奴らの――』
あの時彼は、ナタリアにそう問いかけた。もしそれが事実だとするのなら、彼はそれをきっと識っていて問うたのだ。それに続く言葉が、今なら容易に思い浮かんでしまう。
「お前らは重要な奴らの代わりだから」
血液が下る音に阻まれて周りの会話が断続的な音になって聞こえるのに、その声だけ、まるで耳元で囁かれたようにはっきりと脳に響いた。足元が崩れ落ちるような錯覚。それでもナタリアは否定して庇ってくれる仲間がいるだけで立っていられるのだ。今まで信じてきた自分が、自分ではないという絶望にたったの独りきりで呑み込まれた彼は、一体どんな想いで受け止めたのだろう。どんな気持ちで歩き続けているのだろう。
ナタリアにとっての彼は今この瞬間、敵でも偽者でもない、ルーク・フォン・ファブレというたったひとりとして、ようやく揺るがない存在になったのだ。将来を誓いあったルークではないルークとして。
失うことで気づく大切さなんて、なんて我が侭な感傷なのだろう。どんな言葉を尽くしても、懺悔にはまるで足りない。後悔は尽きない。
「伯爵。そろそろ戦場へ戻られたほうがよろしいのでは」
「……む、むう。そうだな」
モースに促され背を向けるアルマンダインの声に、はっと意識が浮上した。こんな自分勝手な感傷で、万余もの命を沈めるわけにはいかない。たとえ、もし本当にモースの言葉が真実だったとしても、ナタリアは今一国を統べる者の一人なのだ。
「待ちなさい! 戦場は崩落するのよ!」
「それがどうした」
遠ざかる上司の背に鋭く言い放ったティアに返ってきたのは、嘲るような笑い声だった。途端、背筋に不快感が走る。まさに人を人とも思わないような態度が、同じく上に立つ者として赦せないというよりも、もはや理解が出来ない。
「戦争さえ無事に発生すれば預言は果たされる。ユリアシティの連中は崩落ごときで何を怯えているのだ」
「大詠師モース……なんて恐ろしいことを……」
「ふん。まこと恐ろしいのはお前の兄であろう」
ティアの肩がちいさく震えているのが判った。尊敬し、信じていた人たちに裏切られた事をまざまざと思い識らされた彼女の背は儚い。それがどんなにつらく居た堪れない痛みをもたらすのか、推し測る事はできても解る事はできない。誰ひとりの傷も癒着する事など不可能なのだ。それでもナタリアは解りたいとねがう。同じくらい、解ってもらいたいとも。たとえそれが身勝手なエゴだとしたって。
「それより導師イオン。この期に及んでまだ停戦を訴えるおつもりですか」
「いえ、私は一度ダアトへ戻ろうと思います」
「イオン様!? マジですか!? 帰国したら、総長がツリーを消す為にセフィロトの封印を開けって言ってきますよぅ!」
思いがけないイオンの言葉にアニスはもちろん、ナタリアを含め同行者たちも驚いて視線を寄せる。しかしイオンはまったく気にかけない様子で穏やかにモースを見据えたままだった。
「ヴァンに勝手な真似はさせぬ。……流石にこれ以上、外殻の崩落を狙われては少々面倒だ」
僅か唸りながらそう言ったモースに、「でも……」とアニスは不安げに呟いた。「力づくで来られたら……」
確かに、いくらモースがそう言ったとしてもヴァンに武力で抵抗できるとは到底思えない。導師守護役の彼女にすれば、避けたい事態だろう。
しかしそれを見越したように、イオンは笑って囁いた。「そうなったら、アニスが助けに来てくれますよね」
不意を食らったアニスが声を上げる間もなく告げられたのは、その場に居る誰にも予想外の『命令』だった。
「唱師アニス・タトリン。ただ今を以って、あなたを導師守護役から解任します」
「ちょっ、ちょっと待って下さい! そんなの困りますぅ!」
「皆さんと行動を共にして、伝え聞いたことは後日必ず僕に報告して下さい」
「―――っ!」
アニスに近づいて耳打ちした言葉が漏れ聞こえた。きっとイオンなりに考えがあっての行動だろうと、ナタリアは内心で頷くしかなかった。
「頼みましたよ。皆さんもアニスをお願いします。ダアトへ参りましょう」
「御意のままに」
今ナタリアたちに出来る事は、モースの隣に並んで兵士が開いた国境である柵を越えていくイオンを、戸惑いながらも見送るだけだった。
「何を考えているかは測り兼ねますが、アニスをここに残したということは、いずれは戻られるつもりなのでしょう。それより――」
そう言ったジェイドと視線がふれて、再び暗闇のなかで途方に暮れるような感覚が蘇る。
「……わたくしなら、大丈夫です。それよりもバチカルへ参りましょう。もはやキムラスカ軍を止められるのは父……いえ国王陛下だけですわ」
アイデンティティを失いかけている状態で、国王陛下である父親を、父と呼ぶことが憚られた。今までの自分を信じたい、けれど信じられない。自分が自分であるという証拠は、一体どこに存在するのだろう。葛藤がぶつかりあって思考を揺らす。生きている事が恐くなるなんて、これまででは想像もつかない事だった。
もし自分が本当に女王ではなかったとして、果たして『ナタリア』として認めてもらえるのだろうか。
そうやって考えれば考えるほど、思い浮かぶのは彼の存在。そして思わずにはいられない。底も先も見えない暗闇のなかに独りきり置いてきてしまった彼を、同じ状況に置かれて初めて解りたいだなんて、それがどんなに身勝手な考えか痛いほど理解していても。