第3章 嘘の重さで潰れた真実 5

第3章 嘘の重さで潰れた真実 5




 戦争を止めるには、インゴベルト王に直接訴えるより確実な方法は最早ない。漆黒の翼との下らない問答の末に酒場から国境を越え、エンゲーブの住民を受け入れるよう依頼するためにアスターの屋敷に訪れた。
「それでしたら先程イオン様から依頼されました。ご安心を」
「助かります」
「どういたしまして。イヒヒヒヒ」
「ところで、ザオ砂漠で何かあったんですか?」
 礼を言うジェイドに奇妙な笑いで応えるアスターに訊ねる。すれ違ったキムラスカ兵が焦燥した様子で「大変だ、ザオ遺跡が……」と騒いでいたのを思い出した。嫌な予感ばかりが胸を騒がせる。
「これはお耳が早いことで……ちと困ったことになっております。地震のせいか、ザオ砂漠とイスパニア半島に亀裂が入って、この辺りが地盤沈下しているのです」
「それって、もしかしなくても!」
「ケセドニアが崩落してるんだわ……!」
 セントビナーに続く崩落。まるで見えない糸が張り巡らされ、ヴァンの手によって踊らされているような気持ちになる。自分の兄ながら、得体が知れない。
『ふん。まこと恐ろしいのはお前の兄であろう』
 モースの嘲りに満ちた台詞が過ぎった。これ以上の崩落を危惧している彼も、兄の駒の一つに過ぎないのだろう。そして最初から駒として造りだされた"彼"も再び。戦場だけではなく、ケセドニアまで崩落させるだなんて、一体何の意味があるのかティアにはまるで解らない。
 こうして心の距離がどんどん離れていく度に、幼い頃の優しかった記憶が却って鮮やかになっていく。どうして大切なひとは皆、変わってしまうのだろう。離れていってしまうのだろう。
「戦局報告です! 11時32分、キムラスカ軍がエンゲーブに到着しました!」
「ご苦労。引き続き状況を監視せよ。―――今しがた、ケセドニアが崩落すると仰いましたが?」
「アクゼリュスやセントビナーと同じことが起きてるってことだよ!」
「何ということだ……ここは両国の国民が住んでいる街。この戦時下では逃げる場所がない」
 アスターが絶望的な声で嘆く。しかしこのままいけば、その絶望さえも知らないまま混乱に陥って魔界の底へ沈んでしまう多くの命があるのだ。ここに居る誰ひとり、たとえどれだけ傷ついても立ち止まれない。それがどれだけ過酷だと憤っても仕方がない。だって事態を変えられる力を持つのはティアたちしかいないのだ。
 緊迫した状況の連続で、言うまでもなく全員が心身ともに疲弊しきっている。ティアも例外ではなく、軍人とはいえ体力的にも精神的にも既にギリギリのラインに差し掛かっているが、だから弱音を吐くわけにはいかないのである。
「この辺りにもパッセージリングがあって、ヴァン謡将がそれを停止させたってことか?」
「それならザオ遺跡ですわね。イオンがさらわれた……」
「あ〜もう大佐! 何か考えないんですかあ!?」
「……ツリーは再生できなくてもセフィロトが吹き上げる力はまだ生きているはずです。それを利用して、昇降機のように降ろすことは出来るかもしれません。しかし―――」
 聴いているだけならかなり望みが持てる話だが、言葉を濁すジェイドの顔は曇る。セフィロトの仕組みに関してある程度理解しているティアだからこそその考えの手堅さを実感できるだけに、ジェイドの態度は怪訝なものだった。
「しかし?」とアニスが不安げに聞き返すと、ジェイドはポケットに入れていない右手で眼鏡のブリッジを押し上げながら説明を続けた。
「シュレーの丘のパッセージリングを思い出して下さい。あれにはヴァンの命令を取り消すように『あの距離まで届いて、且つ作用する何らかの力』によって上書きがされていました」
「あ! 超振動……?」
 アニスの閃きと同じ思考に辿り着いて、しかし一瞬でも彼の事が思い浮かんだ自分が恨めしい。彼はもうヴァンと目的を同じとする敵なのだ。わざわざ逆らうような事などするはずがないのに。
 ―――どうしても、信じたいと思ってしまう。
「そんな……」
 放心したように低く呟くナタリアは一体、被験者とレプリカのどちらを思い浮かべているのだろう。そんな詮無い事を考えて、やめた。どちらにしてもそれはティアが憶測していい事ではないし、考えずとも自然と解ってしまう。彼女が想い続けているのは図らずとも、離れていてもずっと被験者だった。だって一緒に過ごした七年の間だって、彼女が見ていたのはそれ以前の被験者のフィルタを通した彼だったのだ。
 心臓が締めつけられるような気持ちを入れ替えるように深呼吸をして目蓋を閉じる。そして不相応な感傷にも、蓋をした。彼はもう敵なのだ。心のなか、誰にも悟られないようもう一度だけそう呟いて。
「ここで迷っていても何も変わらないわ。まずはシュレーの丘に急ぎましょう」
 胸を打たれたように頷くジェイド以外を見回すと、一人話についていけないアスターの戸惑う姿があった。ジェイドに促されたガイが簡単な説明をし終えるまで、ティアは目を瞑ってそれを聞いていた。

「待て」
 閉鎖されていた出口をアスターの名を出して通り抜け、砂漠へと足を踏み入れようとした時、懐かしさを呼び起こすが記憶より少しだけ硬質な声がティアたちを呼び止めた。はっとして振り返った先にいたのは―――「アッシュ!」ナタリアがそう叫ぶと同時に、自分が誰の姿を求めていたのかを改めて痛感して、完全に打ちのめされてしまった。
 どうしてこんなにも逢いたい。わからない。蓋をした感情が溢れだす。償いたいのか、それとももっと別の衝動なのか。わからないわからないわからない。何にしたって、こうして離れてしまってから思い知るなんて、なんて愚かなんだろう。こんな酷い気持ちなら識りたくなんてなかった。
「―――さすがにあの屑でも戻らなかったか」
 舌打ち交じりの嘲笑に、表情は一様に険しくなる。誰ひとり話題には出さなくとも、各々彼の事をどんなかたちであれ考えている事は明白だった。だからこそ禁句であるかのように、皆意識的に避けている。グランコクマでガイの懺悔のような告白を聞いてから、自分たちの罪から目を逸らす事ができなくなっていたので。
「その口振りからすると、ルークに用があったみたいですね」
 被験者を前に、敢えて彼を『ルーク』と呼ぶ冷淡さが彼らしい。それでも今は、睥睨するアッシュとガイの眼差しが一層鋭くなるのを飄々と受け流す無表情が憎らしかった。この状況下でどうして平静を保っていられるのか。しかも"彼"を造り出す要員となったのは、間違いなくこの男だったのに―――…… そんな行き場の無い憤りも焦りも不安も、何もかもが入り混じってどうしようもない。
「アッシュ。何かありましたの? どこか具合が悪いとか……」
「……別に」
 一瞬だけ顰められた顔がその言葉を裏切っていたが、敢えて何も言わなかった。言ったとしても彼がそれを認める事はきっとない。負けず嫌いで強がりで、素直にはなれない不器用さ。"彼"は確かに、アッシュのレプリカなのだ。
「エンゲーブが崩落を始めた。戦場の崩落も近いだろう」
「このままでは戦場にいる全員が死んでしまいますわ!」
「馬鹿野郎、ここにいたらお前も崩落に巻き込まれて死ぬぞ!」
「そんなこと分かっています。ですからわたくしたちは、セフィロトの吹き上げを利用して、ケセドニアを安全に降下させるつもりですの」
 叱り飛ばしたアッシュに言い返すナタリアの声は、王族として、民を護る者としての誇りに満ちたものだった。たとえ偽者と罵られようと、そしてそれが本当であろうと、彼女はナタリアという一人の人格を持った存在だった。
 それなのに、"彼"の事はただのレプリカと見なして目を背けてしまった。ナタリアと"彼"のあいだに、一体どれだけの差があるというのだろう。そこにあったのはただの幼さだけだ。レプリカという存在を初めて目にして受け止める事ができなかった自分の。
「……そんなことが出来るのか?」
「さあ? ただしあなたの協力があれば、成功するかもしれません」
「……良い性格してやがる」
 確認するように視線を寄越されたジェイドは、言外にアッシュの協力を促した。王族の血を引いているからか、正義感が強いアッシュがそれを無碍にするわけがなかった。
「グズグズしてる暇はない。行くぞ」
「でも、シュレーの丘なんて間に合うかどうか……」
 歩き出すアッシュを見て思わず零れてしまった弱音に、強い視線が突き刺さる。それは非難ではなく、確信に満ちた双眸だった。
「間に合う。そもそもセフィロトは星の内部で繋がっているからな。当然、パッセージリング同士も繋がっている。リングは普段、休眠しているが、起動さえさせれば、遠くのリングから別のリングを操作できる」
「ザオ遺跡のパッセージリングを起動させれば、既に起動しているシュレーの丘のリングを動かせる?」
「ヴァンはそう言っていた」
 その言葉に頷いて背中を追うがすぐに立ち止まって、少し前に佇んでいたジェイドに声をかけずにはいられなかった。視界の端に捉えた彼は、珍しいほど深く考え込むような表情をしていたので。
「……いえ。何でもありません」
 いつものように詮索を許さない紅い眼に背中を押されるようにして、ティアは再びアッシュを追った。だけど胸騒ぎは止まないまま、思考を酷く揺さぶり続ける。
 砂の海に取られて縺れる足よりも、心の方がずっと重かった。

 砂嵐が吹き荒れる砂漠を東に向かって、漸く遺跡に辿り着いた。砂の波に呑まれた遺跡は、かつての栄華の片鱗すら覗かせない。叩きつける風から逃れるように中へ駆け込んだアニスが勢いのままに唸った。
「まさかこんなところに二回も用事が出来るなんて思わなかったよ〜」
「……少し前のことなのに、前来た時と随分変わってしまったわ」
 ひとりごちた言葉は、勿論この場所を指してではなく、自分たちを取り巻く状況。初めてこの遺跡を訪れた時からまだ二ヶ月しか経っていないなんて、まるで嘘のようだ。
 歌を口ずさみながら螺旋状の斜面を駆け降りるアニスに引っ張られるようにしてついていく渋面のアッシュの背を睨みながら、「それより」とガイが呟く。
「アッシュの言葉をそのまま信じて大丈夫なのか?」
「アッシュのことを信じられませんの?」
 ナタリアが悲しげにそう言えば、ガイは苦笑して「いや。ただ、罠じゃないかと思うことはある」と言った。それにはティアも頷くより他なかった。いくら協力的であっても、アッシュはヴァンの直属の部下なのである。何の疑いも持たずに信じてしまうには、それは疑わざるを得ない事実だった。
「パッセージリングの性質を考えても、情報は正しいものだと思いますよ」
 ジェイドは否定しなかったが、それ以上は何も言わなかった。沈思黙考が彼のスタンスであるが、アッシュに遇ってからはそれが目に見えて頻繁になったように思える。
 何かある。これは確信に近い推測。そしておそらく、それは自分たちに多少でも支障を来すものだ。そうでなければジェイドがここまで黙っている理由が分からない。
 同じなのだ。―――"彼"がレプリカだと判っていて、黙っていたあの時と。

 入り組んだ高架をひたすら進んでいくと、僅かに振動した後、鈍い重低音とともに立っていられないほど足元が激しく揺れだした。
「橋だけじゃないわ。この地下都市全体が揺れているみたい」
「……微弱ですが譜術を感じますね」
 ジェイドが言い放った言葉に意識を集中してみても、ティアには感じることができなかった。他のメンバーも同じだったようで、揃って怪訝な顔をしている。
「帰りに橋がなくなってる……なんてのはごめんだがな」
「やなこと言わないでよ〜!」
 ダアト式封咒で封印された神殿へ続く橋も半ばに差し掛かって、ガイの笑えない冗談にアニスが悲鳴を上げた瞬間、さらに大きく地面が鳴動した。
「地震か!?」
「違います。これは……神殿へ急ぎましょう」
 アッシュに応えるジェイドの声をかき消すようにして響く咆哮とともに、今度こそはっきりとした音素の流れを感じた。これは魔物のものだ。そしてもうひとつ、それさえも凌ぐ圧倒的な存在感を放つ音素、は。
「シュレーの丘のパッセージリングを操作したのは、あなたではありませんね」
 先を急ぐアッシュに向けられた言葉は、最早質問ではなかった。ジェイドは確信しているのだ。
「……そうだが?」
「やっぱりそうでしたか。―――単刀直入に言いましょう。シュレーの丘のパッセージリングを操作したのはルークです。そしてこの先にいるのも、おそらく」

 ああ、ああどうして。
 あなたは離れていってしまうのに、こんな酷い、恋しい気持ちにさせたまま、どうして嫌いにさせてはくれないんだろう。どうしてこんなにかなしいんだろう。
08/04/03