第4章 守るための裏切り 1
余韻だけが漂う真っ暗闇のなか、創世暦の時代から光を放ち続けているパッセージリングの明かりを受けて立ちすくむ五つの影を眺める。蒼色の羽根が舞い、その羽根の来た路を辿りかえすように五人はひたすら頭上に眼を凝らしていた。染み渡る沈黙が痛々しい空間で、誰の心もひとつにならないまま、降下していく感覚、それだけが共有している唯一だった。
滞りなく降下が終わった頃合いを見計らって、「完全に降下したようです。パッセージリングにも異常はないですね」ジェイドが口を開く。
「あいつ……ホントに降下させたんだ」
ぽつり、アニスが呟く。呆然と上向いた少女の手はきつく握り締められている。その手に押し込めているものは戸惑いか猜疑か。どちらにしろ、単純に喜ぶことができないしこりが残っているのだろう。
「どうして――どうしてわざわざ私たちに手を貸すようなことをするのでしょう」
「ナタリア、あなたにも分かるでしょう? ルークは兄さんの味方になったわけじゃないんだわ」
「ヴァンに外郭を降下する必要が出来たのかもしれないだろう」困惑しているナタリアに馬鹿げた説得を試みるティアを見て、アッシュは堪らずに誡める。疑う余地なら探せば幾らでもあるというのに妄信するその愚かさが、もう既に去った姿に重なって。「シンクやアリエッタが来たのが良い証拠だろうが」
アッシュの正論にぐっと息を詰まらせるティアは、それでもなお食い下がる。
「だけど! シンクは自分を『監視役』だと言っていたわ。つまりルークは、兄にとって監視しなければならない対象なんじゃないかしら」
レプリカという存在の不安定さを考えれば監視の目的などそれ以外にも掃いて捨てるほど浮かんだが、希望に取り憑かれたその眼の力強さに思い込みの深さが見て取れて、だから彼女には何を言っても無駄であると覚って舌打ちを返す。
そうして再び訪れた静寂のまんなかに、打ちひしがれた背中をずっと向けているガイが呟いた。
「いつから分かってたんだ、ジェイド」
「何をです?」
「あいつがパッセージリングを操作してたって、いつから気づいてたんだ」
「確信したのはアッシュが来たときからですね」
一瞥を受けて眉を寄せれば、ポケットに両手を突っ込んだままのジェイドが肩を竦めた。どこかで聞いた話で、両手を隠す人間は隠し事が多いのだというのを思い出して、たしかにそうだと内心で納得する。
喰えない笑みを貼りつけている目の前の男は、自分だけが識っている情報を易々と晒したりしない。口が堅い男として捉えるならさすがはマルクト皇帝の懐刀というべきか。しかしそれが彼らの人間関係の希薄さに拍車をかけている事実も否めない。
「シュレーの丘の操作はてっきりアッシュが行ったものだと思っていましたが、ケセドニアで会った時点で降下作業については説明するまで心当たりがないようでしたので」
ジェイドの言葉に思い当たることでもあるのか、ティアがはっとして彼を見遣る。
「そりゃあよかった」そう言って振り返ったガイの右手は握り締められたまま力を持て余してかすかに震えている。「最初から知ってて黙ってたんなら、またあんたを殴ってたところだ」
「やれやれ、私はあなたのストレス解消のためにいるわけじゃないんですけどねぇ」
皮肉を返すジェイドにガイは口を閉ざしてようやく、色をうしなった拳の力を抜いて振り返る。唇を噛み締める表情から滲み出る後悔は、強い覚悟へと変わっていた。
「とにかく先へ進もう。どんな理由があるにしろ、あいつがこれからもパッセージリングを操作するならまた会える」
「後半はともかく、今すぐここから出ることには賛成だな」
「そうですね。きちんと魔界に辿り着いているのか確認した方がいいですから」
苛立ちを押し込めたガイの視線を受け流しながらマルクト皇帝の懐刀を見遣れば、相変わらず真意の読めない顔でうすく笑った。
遺跡の外、開けた視界に細めた目に映る世界には、たちこめる紫があたりに渦巻いていた。見渡すかぎりに拡がる障気の合間には、青白い稲妻が轟いている。その光景により、確かに魔界へ落ち着いたのだと視覚から脳で理解する。そういった事実をひた隠していた堅牢なまやかしにいよいよ亀裂が入ったのだと思えば、たとえ既に識っていた身であっても改めて途方もない話だと感じた。
監視者たちを閉じ込め、障気の海を覆い隠して生まれた空中の大地。何の疑問も持たずにその地で暮らしていた人々は、果たしてこの事実を受け入れられるだろか。
(どうせすぐには無理だろうな)
真実を識らない者はいつだって滑稽で愚かしい。いっそ腹立たしいほどに。今自分がそこに存在していることが当然だと思い込み、世界のすべてはただしく積み重ねられた歴史の上に成り立っているのだと信じきり、どんな時間軸に於いても預言だけは揺るぎない正だと決めつけている。
そうやって拠り所にしているものの悉くが、しかし随分と前から偽りで塗りつぶされていたことを、ほとんどの人間が識らない。足元の地表は惑星預言を詠み上げたユリアに、その預言は一人の男と一体のレプリカによって。
外郭大地へ戻るために、合流場所であったケセドニアでノエルと落ち合った。降下のすこし前にはもうエンゲーブの住人を一人残さず無傷で運び終えていたのだという。操縦士としての技術の高さに、アッシュは内心で舌を巻いた。
「ルグニカ平野の様子はどうだったの? 無事に降下できたのかしら」
「はい。降下の影響で、キムラスカ軍の多くがカイツールまで退いたようです」
「そんなところまで降下したのか」
予想以上に広い範囲に亘っていた崩落に瞠目すると、ジェイドが「ルグニカ大陸で外殻大地に残っているのは、グランコクマの周辺だけになってしまいましたね」 とちいさく呟いた。もう暫くすれば、残っている外郭も余すところなく魔界へ落ちていくだろう。
「パッセージリングが上手く機能して、戦場の兵士たちが無事でいればいいのですが……」
「そうだな。それにカイツールにも大勢の兵士がいたはずだ。あそこまで落ちてるとは思わなかったよ」
「みんな、混乱してるよね……」
落ち込んだように声を揺らすアニスは俯いて、険しい表情で唇を噛みしめている。
「ノエル、到着したばかりで申し訳ありませんが、また外郭へ飛んで頂けますか?」
幾ばくか気遣うような声音で訊ねたジェイドに、「勿論です」と応えたノエルの表情は笑顔だが、やはり疲労の色は隠せていない。
乗員人数が限られているアルビオールには、いくら大都市ではないといえども食材の街として賑わうエンゲーブの住人を一度に乗せることはできない。いつ始まるかわからない崩落に怯えながら魔界と外郭とを何度も行き来するのは、かなりのストレスだっただろう。それでも笑顔で応えるのは、成り行きであったにしろ彼女もまた世界を救うための重要な一人であることの自負をしっかり背負っているからにちがいない。技術も去ることながら、そういった彼女の決意にこそ敬意を払うべきかもしれなかった。
「疲れてるだろうにすまないな、ノエル」
労わるように心からの謝罪をするガイの言葉に、ナタリアが沈んだ面持ちで肩を落とした。
「戦争も崩落も、民にとってはその命を脅かすという意味では同じ事……。そのことを為政者が理解できれば、戦争など起きなくて済んだかもしれませんのに」
「戦場が魔界に降りたおかげで、休戦は出来たけどね〜。エライ人はいつも自分達の都合の良いことばっか。ホント、やんなっちゃう」
「世界に大きな異変が起こらないと戦争が止まらないというのも皮肉なものだな」
まだアッシュが"ルーク・フォン・ファブレ"であった頃、幼いながらも感じていた為政者たちの腐乱した雰囲気を思い返して、無意識に嘲笑が零れる。
駆け引きと追従、謀略と野望、悪意と偽善。不快な肌触りのする悪感情を善人の仮面の下で飼い馴らして笑う輩は、残念ながらいつだって国の上層にいるものだ。それらを巧妙に隠し通して、時に利用する奴らだけが生き残る。ナタリアのように本当に純粋な気持ちだけで政治をする人間はほんの一握りに過ぎない。
もう随分と昔に、そんな国を変えようと誓った。『いつか俺たちが大人になったら』――その言葉を思い出せば、結んだこともない小指がなんだか疼くような気がした。
「これから戦争と崩落で混乱した人々を、両国は治めていかなければならない。今のような情勢下でこそ、国を治める者の才覚が問われるんじゃないかしら」
「わたくしは……」
言いかけて口を噤んだナタリアはめったになく心もとない顔つきをしたが、頭を振って再び真っ直ぐに前を見据えた彼女の眼には、しっかりと芯の通った光が射していた。それは幼い頃によく目にしていた、アッシュにとっては希望に代わる比類ないものだ。この光に導かれるようにしていつだって前へ突き進んできた。それは何もかもを奪われて離れてしまった現在であっても変わらない。
「やはり、わたくしも考えなければいけませんわね……。公事に触れてきた者として、今からどのようにすべきかを……」
「それなら外郭に戻りましょう。バチカルに行ってインゴベルト王に――」
「その前に、魔界の空を飛んでもらえますか。少し気になることがあるんですよ」
「何が気になっているんだ?」
ティアの提案を遮ったジェイドの言葉に、悪い予感を感じて思わず訊ねる。意外と図太い神経をしているらしいこの男が気にかけることとなれば、余程のことなのではないか。
「……確証のないことは言いたくありません」
「大佐がこう言う時は、何か嫌なことがある時ですよねぇ……」
アニスの苦い溜め息に、誰もが同意して渋い顔をした。
障気の海の上をアルビオールで進んでいくうち、その理由はすぐさま識れた。予感は的中。濃い紫色した泥海から外郭へと伸びている巨大な光の幹が、明らかに異常な明滅を繰り返していたのだ。
ジェイドの話によれば、ザオ遺跡の警告文にはセフィロトの暴走が記されており、制御盤にも『パッセージリングが耐用限界に到達』とあったという。何らかの影響でセフィロトが暴走してツリーが機能不全に陥っているらしい。
パッセージリングの損壊はツリーの消失と同義語であり、同時に外郭の崩落を意味している。既に降下したケセドニア周辺の地もセフィロトの力で辛うじて液状化した大地の上に浮いてる。もしもパッセージリングが壊れるようなことがあれば、崩落した大地がひとつ残らず泥の海に呑み込まれるのは遠い未来の話ではない。
外郭大地の崩落をヴァンから知らされていたアッシュも、さすがにパッセージリングの暴走までは教えられていなかった。思っていた以上に何枚も上をいっていた男の性質の悪さに、噛みしめた奥歯が軋る。
そして暴走の原因と対処法を探るため、アニスの提案でユリアの預言でも最高機密とされる『秘預言』を詠むことのできる唯一の存在、イオンのもとへと向かった。
「――ND2000。ローレライの力を継ぐ者、キムラスカに誕生す。其は王族に連なる赤い髪の男児なり。名を聖なる焔の光と称す。彼はキムラスカ・ランバルディアを新たな繁栄に導くだろう。
ND2002。栄光を掴む者、自らの生まれた島を滅ぼす。名をホドと称す。この後、季節が一巡りするまでキムラスカとマルクトの間に戦乱が続くであろう。
ND2018。ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。そこで若者は力を災いとし、キムラスカの武器となって街と共に消滅す。しかる後にルグニカの大地は戦乱に包まれ、マルクトは領土を失うだろう。結果キムラスカ・ランバルディアは栄え、それが未曾有の大繁栄の第一歩となる」
第一から第六までの譜石を加工してできた秘預言を抜粋して詠み終えたイオンが、ふっと身体を弛緩させる。駆け寄ったアニスに支えられながら、「……これが第六譜石の崩落に関する部分です」と色のない顔で囁いた。
「やっぱりアクゼリュス崩落と戦争のことしか詠まれてないな」
「もしかすれば、セフィロトの暴走は第七譜石に詠まれてるのかもしれないな」
ガイの言葉に答えると、ティアが考え込んだ様子で疑問を投げかけた。
「――ローレライの力を継ぐ者って誰のことかしら」
「そんなの、ルークに決まってるじゃん」
「だってルークが生まれたのは七年前よ」
ティアの言葉に誰もが息を呑んだ。ただひとり平静を保っている男が冷静に考察する。
「今は新暦2018年です。2000年と限定しているのだから、これはアッシュでしょう」
「ですが、アクゼリュスと一緒に消滅するはずのアッシュは生きていますわ」
「それ以前に、アクゼリュスへ行ったのはルークでしょ。この預言、おかしいよ」
「俺はあの時点で既に『聖なる焔の光』の名は捨てている」
「ユリアの預言にはルークが――レプリカという存在が抜けているのよ」
青褪めたティアが告げた直後、荒々しく礼拝堂の扉が開け放たれ、騒々しい足音とともに神託の盾兵たちの声が響いた。
「見つけたぞ、鼠め!」
「ヤバ……!」
面食らったアニスが舌も引かぬうち、反射のように詰め寄って神託の盾兵の一人の息の根を止める。見渡してみればティアとガイとジェイドもそれぞれ神託の盾兵を刃に掛けていた。
「導師がいるのに強襲するということは大詠師派か。モースに勘付かれましたね」
「みなさん、逃げてください! アニスも!」
珍しく厳しいイオンの声に押し出されるようにして礼拝堂から走り出す。後ろ髪引かれるようにイオンを振り返る導師守護役の背を有無を言わさず押し出して、アッシュも後に続いた。その後ろからジェイドが声を飛ばす。
「アルビオールに戻りましょう」
しかし待ち受けていたのは、大勢の神託の盾兵を従えたディストだった。その頭上には彼ご自慢の飛行安楽椅子にぐったりと横たわっている操縦士の姿。
ノエルを盾に取られ、退路も進路も塞がれた四面楚歌。そんな状況で強硬手段に出るほどの愚かさを誰も持ち合わせていなかった。取り敢えずは「バチカルへ連れて行く。そこで戦争再開の為に役立ってもらうのだ」との要求に従って、様子をみて隙を突くことを決めた。
預言に従うことで繁栄を得られるとかたく信じているモースに協力することで、ディストは何らかの情報を得ようとしているらしい。曲がりなりにも研究者である彼が、目的こそわからないもののレプリカ情報を集めようとしていることは周知の事実だった。その為には手段も人物も選ばないことも。
ナタリアと二人隔離された彼女の自室でこれからのことを考えようと努めたが、こみ上げるもどかしさにも似た感情に阻害されてどうにも思考がまとまらなかった。
幼少の頃、誰にも見つからないように連れて来られて以来まったく足を踏み入れていない部屋は、曖昧ではあるが忘れることのできない記憶のものとあまり変わっていないように思えた。ソファの上には、彼女の父親にして国王であるインゴベルト王が誕生日にプレゼントしたティディベアが置かれている。
「たとえヴァンがあなたを必要としていても私には関係ありません。ちょうどあなたの代わりに良い研究材料も入ったことですし」
バチカルへ連行されて来るあいだの船室で、ディストが謡うように言った言葉を思い返す。彼は研究できる施設と材料が満足に得られるのならヴァンさえも裏切る。そして今がその時だ。裏を読めば、ヴァンはまだレプリカではなくアッシュの力を必要としているらしい。そうなれば、現在レプリカを傍に置いているのは名実ともに『駒』として。いつか、ヴァンに誘われて興じた盤上のゲームで駒のひとつを手に取った男が嘲笑いながら言ったセリフが過ぎる。
「『ルーク』とは便利だな。どの駒よりも従順で一番扱い易い」
とうに捨てた名とはいえ、今思い出しても気分が悪いことこの上ない。男が指したのはすべてを奪ったレプリカだとわかってはいても。
辟易した気分を追い払うように息を吐き出せば、ナタリアが不安げな顔で「これから、どうなってしまうのでしょう……」と声を落とした。憔悴しきった相貌には血の気がなく、体温の冷たさを顕著に表している。
「大丈夫だ、何が何でも抜け出してやる。あいつの身代わりに――」
言いかけて、続く言葉が意味する真実に愕然とする。不意に黙り込んだアッシュに戸惑うナタリアが「どうかなさいました?」と覗き込んでくる顔を、直視できなかった。
『あいつの身代わりに殺されてたまるか』
アッシュはそう口走るつもりだった。しかし違った。身代わりにされたのは紛うことなく、レプリカの、ルークの方であった。
もしも本当に預言どおりになっていたのなら、アクゼリュスで死んでいたのはレプリカの『聖なる焔の光』だった。なぜならヴァンが求めているのはより優れている被験者の力だからだ。能力の劣っているレプリカは、本来ならあの場所で朽ちているはずだった。そうならなかったからこの状況が成立している。
真実を識らない者はいつだって滑稽で愚かしい。アッシュはそう思っていた。しかしそれなら、真実を識っていて眼を逸らしていた者は? 自分で自分に投げかける。
居場所や存在を奪われ、それでも命を護られている被験者と、駒として生み出され駒として捨てられるしかないレプリカ。その差異を考えれば考えるほど、アッシュの驚愕は渦を巻いて、何か他の感情へとかたちを変える。
その変形した感情の正体を探るより先に、扉が開錠する音が部屋へやたらと響いた。差し迫る死の足音を携えて。